野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 一2 大拙の夢「一つの世界」の可能性

 鈴木大拙は世界的に有名な人であることは知っていても、どういう人でどうすごいのかは分からない…という人もいるかと思います。今回の内容は鈴木大拙の紹介が主な内容です。

 今、ロシアがウクライナに侵攻しています。21世紀になり、インターネットなどの普及が世界を変えたかのように見えても、結局近代初頭のようにパンデミックに苦しみ、武力侵攻まで始まってしまいました。第一次・第二次大戦の時代(20世紀前半)に戻ってしまったような恐ろしい光景です。

 二度の世界大戦を経た後、欧米では、西洋文明の問題が真剣に考えられるようになりました。戦後、欧米で禅や東洋思想を求められたのは、単なる東洋趣味といったものではなかったのです。

 今、鈴木大拙の思想をもう一度振り返ってみる意味は、あるのではないでしょうか。そして、野口整体を自分の中が平和であるための実践として理解する一助にしてほしいと思います。それでは今回の内容に入ります。

2 大拙の夢「一つの世界」の可能性― 科学を相対化し、禅を東洋の哲学として誕生させた

 仏教学者の上田閑照氏は、鈴木大拙氏の業績は、鎌倉時代日本に禅仏教を広めた道元に匹敵する、と述べています。(道元が『正法眼蔵』で禅を初めて日本語で語ったように、大拙氏は、禅を初めて英語で語り米欧に広めた)

 大拙氏は、アメリカでの生活と第二次世界大戦を通じて、「禅の精神、あるいは東洋思想を西洋に伝えなければならない。西洋人に是非とも東洋思想を理解してもらいたい。そうしないと地上にいつまでも戦争はなくならない(この理由の一端は二 3で詳述)。」という使命感を持つようになっていました。西洋世界の中で東洋人として生き、日本の中では西洋人として生きながら、氏が夢見たのは、東洋と西洋が一つになることでした。

 1950(昭和25)年から58年にかけてカリフォルニア州やニューヨークに居住し、アメリカ各地(エール大学・ハーバード大学プリンストン大学コロンビア大学シカゴ大学など)で仏教思想の講義を行い、また1953年、54年にかけて西欧(イギリス、ドイツ、スイスなど)での講演にも出かけました。1952年より57年までは、コロンビア大学客員教授として仏教・禅の授業を行い、アメリカ社会に禅思想を広めました。

 鈴木大拙氏の最大の功績は、アメリカのエリート層に仏教思想を伝達したことで、第二次大戦後の欧米におけるZENブーム(註)の立役者となりました。

(註)欧米におけるZENブーム

大拙氏の著作や講演が火付け役となり、第二次大戦後の1960年代に起こった社会現象。

大拙氏の通算25年に及ぶ海外生活は、氏の思想にとって、さらに禅思想史上において大きな意義を持つもので、「禅を英語で語る」、「英語で語ることが禅になる」ことは、大拙氏にして初めてなし得たことであったのです。

 禅は本来教義を持たず、坐禅などの修行を通して言葉を超えた本質へと直接的接近を試みる、「宗教行為の中でも最も大切な一つだけに価値を置く(自己の中の霊性の自覚、それ以外を切り捨てた)」宗教です。そして、言葉に信頼を置かない(不立文字・教外別伝)という禅の特質により、伝統的な禅は「思想」というものを断固と拒絶してきました(不立文字は「体験して会得せよ」の意)。

 しかし大拙氏は「世界的見地において、禅にしっかりした思想がなくてはならない」という確信を持っていました。これが、氏が切り拓いた禅の新境地です(禅が思想の衣を纏う。その思索は親友・西田幾多郎氏との相互の影響を通じて培われた)。

 これは禅を、「科学に相対化し捉える」、それは科学的な言葉で理解し表現することで(二からの大拙氏の『禅と精神分析』の引用文はこの具体例)、「東洋(日本)の哲学として誕生させた」という、大拙氏の偉業なのです(西田幾多郎鈴木大拙氏はともに西洋思想を超越・昇華し、幾多郎氏からは「日本で初めての禅哲学者」が生まれ、大拙氏からは「日本で初めての禅思想家」が生まれた)。

 英語を通して、禅の本質を西洋人に説明できる人物は滅多にいるものでなく、英語力、人格、その思想において卓越していたのです。こうして、氏の説く仏教の世界観や禅の実践は、幅広い国家・地域・民族に受け容れられるところとなりました(アメリカで1960年末に発行された雑誌『ライフ』の、「世界に現存する最高の哲学者は誰か」という世論調査の結果、圧倒的多数が「ドクター・ダイセツ・スズキ」と答えた、と報じられた)。