野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 一3 禅を伝える(英語で語る)上で近代西洋(現代)人に必須な「思想」

①二元論における自由から一元論の自由へ

 鈴木大拙氏は長年のアメリカ生活を通じ、身を以って西洋の考え方やものの見方を感じ取り、東洋とどこにどういう違いがあるのか、その本質的な相違を見極めた上で、人間にとって大切なこと(主体の存在の質にかかわる根源)を、欧米での講演を通じて訴え続けたのです。

 大拙氏は、西洋人が「禅に感じる魅力」についての一つとして、近代人の「束縛」に対する「人間元来の自由」を挙げ、次のように語りました(NHKTV 1962(昭和37)年)。

 西洋(英語)のリバティやフリーダムを自由と訳しているけど、本当の東洋の自由の意味は、おのずからなる、おのずからによるということ。ものに束縛が何もない、そのものになって、本体になってはたらくということが自由なんですね。西洋のリバティやフリーダムにはそういう意味はないんですね。そういう点が近代の人に訴えるようになった。

 大拙氏は第四高等中学校(後の金沢大学)中退後、18才(満)で小学校高等科の英語教師となり(故郷の金沢を離れる20才(満)まで)、社会人としての始まりが英語教師であった(英語に通じていた)ことが、これほどに西洋とつながる要因であったと思います。

(「英語の成り立ち」を日本語との違いの上で知ることは、西洋と日本のものの捉え方・思想の相違が分かる)

 番組の解説者は「西洋の自由は、政府からの自由、キリスト教からの自由など、総じて何々からの自由である。東洋の自由、禅の自由は、自(みずか)らに拠る。まさに自由という言葉そのもので、自(みずか)らに拠るという自由。それそのもの、それそのもののままにはたらく、そこに本来の自由がある」と、大拙氏が語った「自由」について説いていました。

「リバティ」は、闘い(運動)を通じて手に入れた、支配からの自由であり、「フリーダム」は周囲や自身の痛み・苦しさなどから解放された状態の自由を意味します。

 英語には禅が説く自由を意味する言葉はなく、このような、西洋の思想の根底には「二元論」があるのです(二元論と対立)。

 解説者はさらに「キリスト教の神と人の分離、西洋近代の主観と客観の分離、という二元分裂。その世界の中で、その分かれた後(あと)から人が生き、物事を見ている。

 しかし、その根底には一なる世界、一つの世界があること、これを自覚することが大切であり、その世界を忘れてはならない。これを自覚しながらそこからはたらく(生きる)ということが大切だ、と大拙氏は盛んに言われた」と、述べていました。

 大拙氏は「禅(坐禅)はこのための最も適切な訓練であり、修行である」ことを西洋人に説き、二元論における自由から「一元論の自由(無心)に至る法としての訓練(修行)」として、禅を西洋に伝えたのです。

 こうして、禅は大拙氏によって、はじめて思想の衣を纏うことになりました。

② 個人指導における「体を整える」とは自己の中の霊性の自覚

 先の、番組解説者の言葉にある「自(みずか)らに拠るという自由」ということですが、私の立場から「これを妨げているのは何か」と言いますと、最近体験した「陰性感情」(これが潜在的に持続していることでの雑念)、また長年続いている、自分にとっても不都合な「感受性」というものです。

(人は感受性によって外界を認識している=自分の感覚によつて、その感覚を眺めている世界(第一部第一章一 1参照)。不都合な感受性とは、ユングの説いた「コンプレックス=自我の主体性を奪うもの」でもある)

 ここ3での大拙氏の説く「禅の心」を、私の行なう整体指導の世界に置き換え、表現してみます。

 私の道場から(個人指導)の帰り途、熱海駅まで歩き、その時、晴れ晴れとした気持ちで景色を見ることができた人から、時折、お礼のメールや葉書を頂くことがあります。

2016年6月初旬 H.K.

…先生宅から熱海駅まで歩いて帰りましたが、雨上がりの晴れた空の下、海と熱海の街が一望できました。

景色と同じように心も晴々し、何とも幸せな気持ちになりました。頭の天辺から空へ抜けるような晴々とした心を、いつも持っていたいと感じました。…

 この(頭が抜ける)時、その人の心は「無心」となって帰ることができたのです(雑念に支配されて生きることは「世界と自分」という二元分裂の状態(自他分離)と言える。「景色と同じように心も晴々」とは世界(他)と自分(自)とが「自他一如」という一元の状態)。

 禅の道における坐禅とは、心を落ち着けて静かに坐り、無心の境地に入(い)ることで心性を究明する修行法です。それは、何も見ず、何も考えず、心を無の状態にするがゆえに、逆に囚われがない(本来の)自分が観えてくるのです。

 整体(個人)指導とは坐禅同様、体を整える(身を調え、心を調える)ことで、本来の自分に戻る(自己発見に至る=自己の中の霊性を自覚する)一つの方法なのです(指導者が関与することで他動(他力)的ではあるが、自力なくして無心には至らず)。

 大拙氏は、それぞれの人が生きるにあたり、自らの霊性(ここでの霊性はすべてのものの根源)によって人とその世界、宇宙と大地の霊性と感応し合うことが大事だとしました。

本来の自己に至り、改めて世界との新しい関係を構築し働く(整った体で初心に戻り生活する(ZENマインド ビギナーズ・マインド))ことが、野口整体の全生の道です。