第四部 第二章 二1 西洋的自然観から生じた「科学的客観」と東洋的自然観から生じた「禅的絶対主観」①
二 近代科学の客観と禅の絶対主観― 西洋近代の自我の確立
心身二元論(身心分離)による「自他分離」
今日から始まる二は、東洋と西洋の物の見方の違いが主題です。客観と主観については第一部第三章で論じました。ここの引用文で(『宗教と科学』)、河合隼雄は主観について次のように述べています。
ひとつのコップを見て、「感じがいい」とか「これは花をいけるといいだろう」とか言うときは、コップとその発言者との「関係」が存在し、その人自身の感情や判断がはいりこんでいる。
つまり、コップとその人との間の切断が完全ではない。このため、そのようなコメントは誰にも通用する普遍性をもち難い。これに対して、コップの重量を測定したりするとき、それは誰にも通じる普遍性をもつ。
この「普遍性」が実に強力なのである。それがあまりにも強力なので、客観的観察ということが圧倒的な価値をもつようになり、「主観的」というのは、科学の世界のなかで一挙に価値を失ってしまう。
東洋では、この主観を発達させることで真理や生命の真の姿を捉えようとしてきました。また、野口晴哉は「感受性の奥に心がある」ことについて、折に触れ述べています。何かを見ることと自分の心は一つなのです。一方、客観というのは見ることと自分の心は切り離すのが前提です。
こうしたことを思い出しながら、本文を読んでみてください(引用文にブログ用の改行あり)。
西洋的自然観から生じた「科学的客観」と東洋的自然観から生じた「禅的絶対主観」
①禅と精神分析
私は、第一部第二章(一 1)で「東洋と違い西洋では、自然は、人間にとって「対立した存在」なのです。」と、東洋の連続的自然観と西洋の非連続的自然観について述べました。
鈴木大拙氏は、このような西洋的自然観から生じた「科学的客観」と、東洋的自然観から生じた「禅的絶対主観」を対比させ、この両者が真の実在に向かう二つの道であることを、テニスンと芭蕉という西と東の著名な詩人を例に挙げ説いています。
次の引用文は、1957年8月、鈴木大拙氏と親交のあったアメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロム(1900年生 ドイツ 新フロイト派)の主催により行われた「禅仏教と精神分析学の研究会議」での、大拙氏の「禅仏教に関する講演」と題された内容からです(『禅と精神分析』東京創元社 1960年)。
研究会議は、当時フロムが教鞭をとっていたメキシコ国立自治大学で行なわれ、メキシコとアメリカの双方から五十名前後の精神科医と心理学者(その大多数は精神分析家)が参加しました。
(それで、この内容は精神分析家に向けられたものである。フロムはこの本の序で、これらの人が禅仏教に深い関心を持つようになったのは、「その著書、講演、およびその人格によって西洋の世界に禅仏教というものを知らせてこられた鈴木博士の業績によるものである。」と述べている)