野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 二4 科学の後にやってくる禅的な方法②

今回は4①の続きからです。以前、私は月刊全生で、野口晴哉先生が太平洋戦争当時に鈴木大拙の著書を読んでいた…と書いている記事を読んだことがあります。いつ頃の内容だったのか忘れてしまい、紹介できないのが残念なのですが。(ご存知の方がいらしたらぜひご教示ください。)

 戦後、野口先生が活元運動をヨーロッパやアメリカに伝えたいと思ったのも、鈴木大拙に誘発されたからかもしれません。

 禅と同様、無意識を意識化する、目覚めさせるための実践として活元運動があり、整体指導があることを、より広く知って頂きたいと思います。それでは今回の内容に入ります。

②禅の意味する無意識

1(二七頁)

…こう言うあんばいに実在に接近するやり方を私は禅的方法と言う。それは前科学的、後科学的或る時は反科学的方法である。こういうふうに実在を知る、または実在を見る見方は意志的(コネイテイヴ)(能動的)または創造的と呼んでもよい。

…科学者は抽象を用いるのだが、抽象というものにはみずから発する力というものがない。しかるに禅はみずから創造の源泉の中に飛び込んで、その源泉の生命を、源泉そのものを飲みつくしてしまうのだ。

 この源泉を禅の〝無意識〟と言う。だが花は自分で自分を意識することはない。この花を花の無意識からめざめさすものはいったい何か。これが〝私〟というものである。

 テニスンは花を壁から引き抜いてしまったので、ここに失敗を犯している。しかるに芭蕉は垣根にヒッソリかんと咲いているいじらしい薺(なずな)を〝よく見る〟ことにおいて、その無意識から薺をめざめさせた。

 この無意識とはいったいどこにあるのだろうか。こればかりは言うことも語ることも出来ない。この私の中にあるのか、それとも花にあるものなのか。私がどこにと問うとき、それはすでにそこにもなく、おそらく他のどこにもないだろう。だから自分が一片の無意識となって黙るよりほかに仕方はない。

 科学者はモノを殺すし、芸術家はそれを再創造しようとする。芸術家は実在は解剖してみても摑めないことをよく心得ている。だから紙と筆と絵具をもって自己の無意識の中から創造せんとする。

この無意識が本当に混り気なく宇宙的無意識と一体になれば、この芸術的創造は本ものである。それはその作品が他のものの模写でなく、みずからの存在を厳然と保っているからである。画家が一つの花を描く。この花が画家自体の無意識から出て開いた花である時こそ、その花は単なる自然の模写の花でなくてまったく新しい一個の花なのである。

 大拙氏の「この花を花の無意識からめざめさすものはいったい何か。これが〝私〟というものである。」という一文の「私」とは、私にとっては「整体指導者」を意味することになります(観察を通じて無意識を意識化する手伝いをする)。

 これに続き、大拙氏は、科学は網の目であると表現しています(これはすでに第一部第三章二 9に引用)。

二 禅仏教における無意識 1

…科学者は二元論の上でいろいろと考究をやる。…なんでも定量をもって表し得ないものは科学的でない非科学的としてこれを排する。科学者は一定の法則を設定して、この法則の網の目にかからぬものは科学的研究の領域以外のものとしてこれに手をふれようとはせぬ。この科学の網の目がどれほど精密に出来ていると言っても、これが網の目である限り、その目から脱け出すもののあることは必然であり、この目にかからぬものはなんとしても科学の秤(はかり)では測れぬのである。

 大拙氏はこのように、網の目から脱け出すもののある=網の目によって「切り捨てられた部分」があることを説いています。

 科学の網の目から抜け出すものがあるとは、対象化して客観的に捉えるというのでは捉え得ぬものがあり、それは主観、絶対主観というものでしか捉え得ぬものなのです。