野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第三章 世界の大拙と近代仏教の先駆けとなった師・釈宗演の仏教東漸 一1①

 今回から第三章一に入ります。一は鈴木大拙の生い立ちについてまとめられており、金井先生らしい視点となっています。特に大拙の秘教的な宗教性に母の影響があったことはあまり知られていないのではないでしょうか。また、維新後、大拙の家族が困難に直面するようになっていったことも、大拙に西洋化と近代化に迎合しない視点をもたらしたように思います。それでは内容に入りましょう。

一 アメリカと西欧に禅を伝え、世界の大拙となる― 日本人には、西洋の「合理性」を説く

 第二章一(1・2)では、鈴木大拙氏が、とりわけ戦後のアメリカ、西欧での禅仏教の(英語での)講義・講演を通じて「世界の大拙」となり、また、氏の著作や講演が火付け役となり、1960年代の欧米で、ZENブームが起きたことについて述べました。

氏は日本国内で、禅者・仏教哲学者として認識されていますが、欧米における「ZEN」の思想家としての知名度は、日本での比ではありません。

 大拙氏には生涯を決定する二つの大きなできごとがありました。一つは、当然のことながら禅との出会い(とりわけ、臨済宗・鎌倉円覚寺の今北(いまきた)洪(こう)川(せん)師との出会い)であり、もう一つは、十年以上に及ぶ最初のアメリカ生活です。大拙氏がアメリカ生活を送ることになったのは、師・釈 宗演の勧めによるものでした。

 近代禅僧の先駆け・釈宗演師の「仏教東漸」については二で詳述しますが、一では、大拙氏の「自叙傳」(『鈴木大拙全集 第三十巻』)を主な資料として、氏の生い立ちと禅との結びつきにより、貞太郎(大拙氏の本名)が大拙となるまでと、氏がZENの思想家「世界の大拙」に至った経緯について、詳しく述べていきます。

1 禅の思想家・鈴木大拙氏の生い立ち― 貞太郎が大拙となるまで

① 貞太郎に影響を与えた両親の人柄と父の死後の生活

貞太郎は明治日本(明治維新1868年)が始まると直ぐ、1870(明治3)年11月11日(旧暦・明治3年10月18日)、石川県金沢市(下本多町)に五人きょうだい(柳・元太郎・亨太郎・利太郎・貞太郎)(註)の末っ子の四男として生まれました。

(註)元亨利貞(げんこうりてい) 

古代中国の書物『易経』で乾の卦を説明する語。「元」を万物の始、善の長、「亨」を万物の長、「利」を万物の生育、「貞」を万物の成就と解し、天の四徳として春夏秋冬、仁礼義智に配する。易経儒家である荀子の学派によって儒学の経典となった。儒家であった大拙の父はこの四文字を四人の男の子に与えた。

 鈴木家は江戸時代、加賀藩藩医を務める家柄であり、代々町医者をしていました。

父の良準は蘭医者であり、金沢藩(明治2年加賀藩から改称)医学館の教師をしていました。また、良準は儒家であり、子どもたちの教育に熱心で、福沢諭吉の書を読むなど先進的な人でした。

 しかし、医学館が明治五年に閉館となるとともに、良準は五十歳で隠居の身となってしまい、それから四年後の1876(明治9)年11月16日、貞太郎が満六歳になってすぐ、54歳で亡くなりました(明治7年の医制発布による医療界激変の影響か)。

 当時は診察のたびに報酬を受け取るような習慣が無く、そして父は「医は仁術」(仁は儒教の最高位の徳目)を標榜していましたから、家計は豊かだったわけではなく、父の死後、一家はたちまち窮乏の淵に立たされたようです。その上、父の死の翌年、西南戦争の影響で銀行が破産し預金を全て失ったこともありました。

 激変の明治初頭、早く夫を亡くした母の増(ます)は幼い子どもたちを抱え、畑を持っていない町屋の家計をやりくりしながら生きなければならず、家の半分くらいを人に貸しての暮らし振りでした。

 そして、増は宗教心の篤い人で、金沢は風土として信仰深い土地柄である上に、いくつもの不幸を味わい、自ずから信心の生活を送るようになりました。

大拙氏は父の死後の母について、次のように述懐しています。

父が死んだその次の年(明治10年)に、わしのちょっと上の兄(11歳)が死んでをるですね。二年続いて、自分の夫が亡くなり、自分の子供の一人が亡くなるといふことは、母親にとっては大変な経験になったに相違ないと思ふ。それで、それから目が悪くなって、越中の黒谷の何でしたかなあ、そこの不動さん(大岩不動)の瀧に打たれに行つたといふことがありますな…。さういふやうなことで、宗教的な気分が十分に母親に動いてをつたもんだろうと思ふ。

 この当時、すでに長女は嫁ぎ、長兄と次兄は家を出ており、母と二人暮らしの貞太郎は、その幼心に母の心情をそのまま受け取っていたものと思われます。「自叙傳」によると、当時、家には曹洞宗の尼僧が読経(度胸)に来ており、その尼は浄土系の尼とは違い、さっぱりとした面白い人だったこと、母がその尼と近しくしていたことが印象に残っているとのことで、大拙氏は、「自然にこの母の感化を受けたことで、宗教方面に関心を持つことになった」と述べています。

こうして貞太郎は、父の儒教的精神と先進性、母の宗教性に影響を受け育ちました。

(補)

「自叙傳」の中で、大拙は母が浄土真宗の秘事法門(ひじほうもん)にも関わっていたようだと述べている。秘事法門とは親鸞の長子、善鸞(1217-1286)が始めた秘教的な教えで、「父から秘密に伝授された教義」と説いた。

 ことに江戸時代に入ってから、幕府に迎合した本願寺を信仰が形骸化し堕落したものとみなして、信仰を大事にする信徒たちが、自分たちみずから親鸞の教えに直結する信仰を密かに行ってきた。東北地方の土着的な信仰や真言密教の儀式の影響を受け、禅知識と言われる正式の僧ではない指導者が教えを説き、神秘体験を重視する。こうした様式や親鸞善鸞を破門した経緯などによって、本願寺派浄土真宗からは否定的に述べられることが多い。