第三部 第三章 一2 米欧での生活を通じて禅を西洋に伝える使命感が醸成される ①
私事のため、しばらく間が空いてしまって申し訳ありません。今日から一2、いよいよ大拙の渡米です。
当時渡米するなどというのは本当に途方もないことで、いくら英語がある程度できたと言っても、学歴も地位もお金もない素寒貧の青年でしかなかった大拙が渡米を実現したのは機縁に次ぐ機縁が結ばれて起きた奇跡だったのです。それでは今回の内容に入ります。
① 師・釈宗演の勧めによりアメリカに行く
1893(明治26)年、釈宗演師は、アメリカのイリノイ州シカゴ(五大湖のミシガン湖畔)で開かれた「万国宗教会議」(9月11日~27日)に、日本仏教界代表・団長として参加することになりました。
この年の七月、貞太郎は円覚寺の仏日庵に滞在し夏を過ごし、その間に、宗演師が万国宗教会議で講演する際の原稿を英訳しました(大拙氏は自叙傳で、その翻訳を、当時宗演師に参禅していた夏目漱石に見てもらったと記している)。
この会議は、世界各国の代表的宗教家達が歴史上初めて、平等の立場で集まり意見を戦わせた、宗教史上最も重要かつ記念すべき出来事でした。
そして万国宗教会議において、会議の事務局長であったドイツ生まれの哲学者・宗教啓蒙家のポール・ケーラス(1852~1919年)と実業家のへゲラーに、日本近代仏教が受け入れられるという出来事があったのです。
ケーラスは、近代社会における科学と宗教の整合性を追究しようと、アメリカに移住し出版社を運営していました。
そして彼は、宗演師が語る仏教に深く興味を抱くようになり、宗演師と話した時、インスピレーションを得て書いた『仏陀の福音』― 仏陀の伝記を中心に初期仏教の教えについて述べた ― を出版しました。その翌年には、宗演師がそれを大拙氏に訳させ日本で出版したのです。
このような縁で1897(明治30)年3月、大拙氏(満26歳)は、禅の師・釈宗演の勧めによりアメリカに行くことになりました。それは、イリノイ州ラサールにあるケーラス運営の出版社・オープン・コート社(社主はケーラスの妻の父親・へゲラー)で、東洋哲学関係の書籍出版の手伝いをすることになったからです。
(自叙傳には「ケーラスが老子の『道徳経』を英訳することになった時、誰かその本を読んでくれる手伝いがいないかということになり、老師からわしに行ったらどうかといわれて行くことになった」とある)
こうして、宗演師は「禅仏教の思想家・世界の大拙」生みの親となりました。