野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 一1 禅の思想家・鈴木大拙氏の生い立ち― 貞太郎が大拙となるまで④

 申し訳ありません。1④を抜かしてしまいました…。今日は1に戻って、鈴木大拙を指導した二人の禅師にとの出会いについての内容です。幕末から明治の初期は、廃仏毀釈が起こり、仏教にとっては苦難の時代でした。

 これは江戸時代、寺が長きにわたって幕府の保護下で民衆の戸籍管理のようなことをしたり、葬送儀礼を行うことで収入を得たり(今で言う葬式仏教は江戸時代に成立?した)、出家僧の堕落などに対する民衆の不満や反発が、討幕と尊王攘夷の中で爆発したことが大本にあります。そうした中、鈴木大拙の最初の師、今北洪川は武家のみに限られていた参禅を広く受け入れ、近代化に適応した新しい禅の道を啓こうとしました。

 鈴木大拙が世界的に禅を広めることになる以前に、近代に向き合った仏教の指導者が何人もいたのです。それでは今回の内容に入ります。

④鎌倉の円覚寺で本格的に参禅する― 大拙氏の人生に深く関わった洪川師と宗演師

 そして上京した年(1891年)の7月末、自身の救いが中心的主題であった貞太郎は、金沢で関心を寄せていた坐禅に本格的に取り組むため、大蔵省にいた同郷の先輩早川千吉郎氏(1863年生)の紹介で、鎌倉円覚寺の今北洪川師(1816~1892年)に参禅しました。

(洪川師はとても人間的な坐禅の師(註)であった。東京の駒込西片町から鎌倉まで歩いて行き、7月27日~9月5日頃まで円覚寺に滞在する)

(註)今北洪川禅師に源を発する「人間禅」

 洪川師はもと儒家だったが、25歳の時、出家の思い絶ち難く、離婚して出家した。

明治の初めに、身分のある人と出家者のみに限られていた参禅に門戸を開き、一般の人が坐禅できる道場を始めた。人間禅の名称は「人間形成の禅」を意味する。旧来の封建的な体質を改め、なおかつ神秘や迷信を説かず、 各人がもっぱら禅の修行によって自己を鍛えあげ、人間として真実の味わい深い人生を生きることを目標とする在家主義の禅。師には山岡鉄舟中江兆民など近代初期に活躍した人物が多く参禅していた。

 この時、貞太郎が魅せられた洪川師の人柄について、『仏教説話体系』(すずき出版)には「身近に接する洪川の日常は簡素であり、人格は飾り気がなくて誠実そのものであった。」と述べられています。

 貞太郎は、期待外れの東京専門学校をこの年の10月には退学しますが、西田氏と同じように東大の選科に入るかと考えての受験準備のためだったようです。そのかたわら、円覚寺に二度目の滞在(1891年11月8日から翌年3月まで)をします。

 その参禅の途中、1892(明治25)年1月16日朝、今北洪川師の遷化(高僧が亡くなること)に立ち会うことになりました。

 洪川師遷化の後は、師の法を嗣(つ)いだ釈宗演師(1860~1919年)が、貞太郎の師となりました。そして1892年9月、貞太郎は東京帝国大学哲学科選科に入学します。

 その後、禅の修行をひたむきに実践した貞太郎が、ある境地に到達した(最初の見性体験を得て)、1894(明治27)年12月、宗演師より「大拙」の居士(こじ)号が与えられました(居士とは在家のまま修行を行う仏教の信者)。

 貞太郎は今北洪川師の生涯と高徳に、深い敬慕の念を持っていました。

 洪川師が明治以前の禅僧の風貌を持つのに対し、後の師・釈宗演は慶応義塾で学ぶなど、まさに近代禅僧の先駆けでした。こうして、貞太郎は大宗匠と仰いだ洪川師を深く慕うことで参禅が身に付き、宗演師の縁で後に渡米することになります。

 この二人に出会ったことは、その後の大拙氏を成り立たせる出来事となりました。

鈴木大拙氏は『禅と日本文化』(岩波書店 1940年)で次のように述べています。

第一章 禅の予備知識

禅は、無明(アヴィディア)(煩悩にとらわれ、仏法の根本が理解できない状態)と業(カルマ)(註)の密雲に包まれて、われわれのうちに睡っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈服するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。

知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。自分そのものを表現しなければならぬ場合には、無言の状態にいる。知識の価値は事物の真髄が把握せられた後に、始めてこれを知ることができる。

これは、禅がわれわれの超越的智慧(般若)を目ざます場合に、認識の普通のコースを逆にした特別な方法で、われわれの精神をきたえるという意味である。

(註)業

 仏教では、とくに身・口・意が行なった行為ならびにその行為が存続して果報をもたらす力という意味。体と言葉と心(身・口・意)は常に一致して行為に現れる。行為は、心に思い、口に言い、身体で行うの三種に分かれ、たとえ身体を動かさなくても行為はあった、と考えられる。いったん起こった行為は、必ずなにかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響を総称して、業という。業から逃れることを解脱という。

 なお、俗には、運のよいことを果報、それを受けた者を果報者とよび、逆に、不幸なことを因果、不幸な者を因果者と称する。