野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 一2 米欧での生活を通じて禅を西洋に伝える使命感が醸成される②

② 広大なアメリカでの生活に育まれた大拙氏の志

 出版社での具体的な仕事は、中国古典の英訳の手助けとケーラスが出版していた雑誌の編集・校正などの手伝いでした。

 渡米三年後の1900年には仏典『大乗起信論』の英訳に尽力する他、1908年(帰国の前年)には『大乗仏教概論』(註)を英語で著し、これが禅仏教の思想家・大拙の始まりとなりました。

(註)大乗仏教概論』

 大拙のデビュー作。明治新仏教の到達点の一つであり、二十世紀のZen Buddhismの起点ともなった書。過去の仏教の解説ではなく、現代に生きる新たな宗教としての『大乗仏教』を思想と実践の両面から提起する。智慧と慈悲の統一を説く理知的にして情熱的な内容である本書は、 37歳の大拙アメリカ滞在時代、大乗仏教の意義とその理想を西洋社会に知らしめるために、満身の気概と情熱をもって執筆した作品。

 これらの仕事とアメリカでの生活を通して、大拙氏は、後の氏にとって大切な二つのことを得たのです。一つは英語が外国語ではなくなったこと(晩年、日本での生活でも猫に英語で話しかけるほど)であり、もう一つは、長年、英語での雑誌編集によって培われた知的作業への習熟でした。

 大拙氏は、この二つを基盤として大望を抱いたようです。

 アメリカでの長期生活を通して、氏の裡に「禅の精神や仏教、あるいは東洋思想を西洋に伝えなければならない」という、一つの使命感のようなものが醸成されていったのです。

 氏は、宗演師への手紙で「居は心(気)を移す(住む場所や環境は人の気性を変化させる)と言うが、アメリカに来てから、日本という小さな所で身を縮めて生きていくという心が次第に薄らいで、世界を自分の活動の舞台にしようという力量不似合いの考えがいよいよ盛んになっていくことが我ながらおかしいと思う」、と述べています(『鈴木大拙とは誰か』金井による現代語訳)。

 こうして大望を抱いた大拙氏は、ラサールでの11年の生活の後、社主ヘゲラー氏の好意により西欧(ロンドン→パリ→ドイツ→ロンドン)で一年を過ごし、1909(明治42)年4月帰国しました(満38歳)。

 そして、帰国後再渡米することになっていましたが、この年、へゲラー氏が没したことで断念することになり、この後、日本で長く過ごすことになります。

 その後の日本での生活で、大拙氏は1911年12月(満41歳)、アメリカ人女性ビアトリスを妻に迎えることになりました。