野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 一2 米欧での生活を通じて禅を西洋に伝える使命感が醸成される③

 今回は鈴木大拙アメリカ生活を経て日本に帰国してからの内容です。

 大拙が帰国した1909年は明治42年第一次世界大戦(1914年)よりも前のことですから、今の私たちからすると想像できないほどの古い話で、こんな時代に大拙のような人が日本にいたというのはすごいことだと思います。

 しかし帰国後すぐには仏教研究者になることはできず、英語講師を10年程していた時代がありました。日本では、仏教の専門家になるとは出家することであり、仏教を学問的に研究するというのは近代に入ってからのことですから、そういう意味でも先駆的だったと言えるでしょう。

③ 帰国後の修行、後の本格的な仏教研究と英語での著述活動

 帰国した1909年からは英語講師を勤めることになり、氏の志からは不本意な時期を過ごします(8月から学習院、10月から東京帝国大学、1910年4月からは学習院教授)。

 大拙氏は当時のことを振り返り、「東洋的思想または東洋的感情とでも言うべきものを、欧米各国民の間に宣布する」という目標に邁進することができず、「長日月を余所事に費やさざるを得なかった」と述べていますが、学習院では寮長として学生の面倒を見ることになったという事情から「徳性を磨く修行期間」とも捉えていたようです。

 こうして十年余りの時が過ぎた1921(大正10)年3月(満49歳)、親友の京都帝国大学教授となっていた哲学者・西田幾多郎氏(1870~1945年)の力添えにより、京都の真宗大谷大学教授となり、その後仏教を講義することになりました。

 間もなく真宗大谷派の全面的な支援のもと、仏教本来の意義を欧米に伝えることを主な目的として、大拙氏らにより東方仏教徒協会(イースタン・ブッディスト・ソサイエティー・EBS)が大学内に設立されました。

 そしてこの年5月には、大拙氏編集のもと史上初の英文による仏教研究雑誌『イースタン・ブッディスト』が創刊され(大拙氏夫人のビアトリス協力による)、自らも多くの論文を発表しました。

(この数年前より禅に関する英文の著述に力を注ぎ始めていたが、大谷大学という環境を得て活動が活発となる)

 こうして、大拙氏(この時満50歳)のこの後40年以上に亘る、本格的な研究と著述、日本そして海外での講義・講演活動が始まりました。

 仏教についての爆発的な英文原稿の活字化・書物化がされ、1927年には『禅論文集』(第一巻)が刊行されました。さらに第二巻(1933年)、第三巻(1934年)と出版され、禅と禅の影響を強く受けた日本の「道」文化を海外に広く知らしめました。

(英語で書かれた『茶の本』(岡倉天心 1906年)にはお茶と禅の関わりが著されているが、英語で禅を専門に著したのは大拙氏が最初。『禅論文集』は、第一章で取り上げたドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルに大きな影響を与えた)

 大拙氏は生涯四半世紀に及ぶ海外での活動と、アメリカ人女性との結婚生活を通して、身体と精神の両面で西洋と東洋の間を行き来しながら、世界における東洋の重要性を探究し続けたのです。