野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 三2 江戸時代の仏教界の堕落による廃仏毀釈運動と日本仏教の近代化

 今日は幕末から明治初期の間に起きた廃仏毀釈についてです。これは明治維新を推進した人々の中にあった神道を日本の国教にしようという思想から始まりました。さほど影響のなかった地域と文化財の多くが破壊されたほど激しかった地域があり、当時の事情を知る人もその後口をつぐむことも多かったので意外と知られていないのですが、その影響は後々までも残りました。

 私の父方の菩提寺は創建が古く、真言宗の寺だったのが室町時代日蓮宗に改宗したという寺です。徳川家の祈願所で皇室ともゆかりのある寺で、古来より神仏習合色が強かったのですが、神仏分離で寺と神社に分けられた上、建物、仏教美術などがかなり破壊されたようです。

 長い間、田舎の小さな寺だと思っていたのですが、歴史を知ると意外なことが分かるもので、この寺にもそんな過去があったのか…と思いました。でも地元の人々の素朴な信仰としては、少なくとも私の祖母の世代ぐらいまで、結婚式や夏越の茅の輪くぐりは神社で、葬式と法事は日蓮宗のお寺で、加持祈祷や相談事はお不動さんの行場で…という神仏習合状態が、続いていたようです。この神社、寺、不動の滝とお不動さんは、江戸時代まで一体のものでしたから、当然と言えば当然なのですね。

 それでは今回の内容に入ります。

2 江戸時代の仏教界の堕落による廃仏毀釈運動と日本仏教の近代化

 日本国内では明治維新後、神道が唯一の国家宗教として認められ、明治元年(1868)の神仏分離令発布と、これによる廃仏毀釈運動(「仏を廃し釈尊の教えを毀す」暴動)によって、仏教は壊滅的な打撃を受けていました。

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったのですが、江戸時代、幕府から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発により、地域差はあったものの、多くの寺が破壊され仏像が取り払われたのです。

この廃仏毀釈運動が起きた歴史的背景と仏教衰退、そして仏教近代化について述べて行きます。

①江戸時代の寺請制度と仏教界の堕落

 江戸時代初期、徳川幕府キリスト教禁止政策として寺請制度(宗門改め)を設けました(寺請け制度を立案したのは徳川家康の参謀、臨済宗の僧・以心崇伝であり、臨済宗徳川幕府の庇護も厚かった)。

 これは、百姓・町人をどこかの寺に所属させ、キリスト教徒ではないことと、身元・身分を寺が証明するもので、寺請手形(寺の証明書)がなければ、百姓と町人は一歩も国内を旅行することが出来ませんでした。

 後に、村ごとに宗門人別帳という身分や農民の石高(こくだか)などを記し、民衆の移動・婚姻などの認可にも関与する戸籍簿的な役割と一体化される(寺が現在の市役所と税務署の役割の一端を担う)ようになり、幕府の管理体制の中心となりました。

 この寺請制度から檀家制度(檀那寺と檀家)も始まり、寺院が監察機関としても、民衆の上に臨むことになったのです(江戸初期は乱世の後の時代で、民衆の側にも菩提寺を求める背景があり、こうした状況の中で制度が定着し、仏教が民衆に浸透していった側面もある)。

 こうした社会的基盤(徳川幕府が与えた特権)を元に、寺院側は、常時の参詣や、年忌(命日に故人を偲び、冥福を祈るために営む)法要の施行などを檀家の義務と説き、他に寺院の改築費用や本山上納金などの名目で経済的負担を檀家に強いるようになりました。

(寺請の主体となった末寺は本山への上納など、寺門経営に勤しむようになった)

 檀家制度においては、寺院の権限は強く、檀家は寺院に人身支配されていたと呼べるほどの力関係が存在していたのです。

こうして、仏教本来の教えは形骸化しました。

 さらに、葬式も寺院の手に依らなければならなくなり、檀家制度は、日本仏教が葬式仏教へと向かう大きな転機となったのです。

(それまで民衆の葬式は、一般に村社会が執り行うものであったが、檀家制度以降、僧侶による葬式が一般的となった。釈迦は「いかに生きるか」を説き、本来、仏教の僧侶は「生きている」人を教導する者)

 江戸時代における寺檀制度(寺請制度と檀家制度)は寺院の社会的基盤を強固なものとしましたが、同時に僧侶の堕落を齎し、明治維新後の神仏分離令発布による廃仏毀釈運動に繋がったのです。