第三部 第三章 三3 釈宗演師、セイロン(スリランカ)で原始仏教に学び近代化の手掛かりを掴む①
今日から鈴木大拙の禅の師、釈 宗演の紹介に入ります。金井先生の生前、この辺りの原稿に取り組んでいた当時、正直私は「ここまでやるか…」と思わずにはいられませんでした。私個人は興味があるし面白いのですが、話を広げ過ぎているのではないかと思いました。
しかし次第に、幕末から近代初頭の日本仏教にとって最も苦しい時期に、今北洪川や釈宗演が寺に閉じこもるのではなく世界に門を開き、禅の生き残りをかけて努力したこと、大拙がその志を継ごうとしたことは学ぶところがあると思うようになりました。
先生が亡くなった翌年、新型コロナ禍が始まりましたが、今というマスクをしなければ電車に乗ることも買い物をすることもできない現実から逃れることはできない時代は、整体にとって苦しい時代です。こういう世界に接することなく生活できるのは、お金のある人か山奥に住んでいる人か、一定の範囲の人にしか会わずに生活できる環境にある人だけでしょう。
整体を実践する多くの人は沈黙を守って嵐が過ぎ去るのを待っているかと思いますが、そういう世界に生きている自分と、整体を実践することの意味を改めて考えて頂けたら思います。
①近代禅僧の先駆け・釈宗演
釈宗演師(1860年1月10日(安政6年12月18日)生)は、伝統的な日本仏教の修行を積んだ禅僧でありながらも、近代化の波に立ち向かった稀有の宗教者でした。
宗演師は幕末(1853年~1869年)の若狭国高浜(現福井県大飯郡高浜町)に生まれました。1870年兄の勧めで、京都の妙心寺(臨済宗・妙心寺派大本山)にいたおじ釈越渓師について得度(僧侶となる「出家」の儀式)し、妙心寺や同じ京都の建仁寺、そして岡山の曹源寺などで修行しました。
宗演師18歳の頃、彼の人生を決める運命的な出会いがありました。それは鎌倉円覚寺(臨済宗・円覚寺派大本山)の今北洪川師が自分の法(本章一 1④で紹介)を継がせたいと是非に頼み弟子にしたことです。
それで宗演師は1878(明治11)年秋より、洪川師の下、円覚寺で禅修行に励みます。世俗への関心を意識的に断ち、只ひたすら坐禅に打ち込み、師より1882(明治15)年、印可(弟子が道に熟達したことを証して師から与える許可証)を得るという鋭才振りでした(1883(明治16)年には嗣法(師の法を継ぐ))。
しかし禅林での修行を終え、仏教界を眺めた師は、明治という新しい時代に応じる国民宗教として、仏教が再生しなければならない時、仏教界は、依然として昔の姿を捨て切れずにいること、近代化の時流の外に取り残され人々の暮らしから離れた所にいる、と確信しました。
この時1885(明治18)年9月、宗演師は洪川師の反対を押し切って、西欧化主義の急先鋒であった慶応義塾の別科に入学します。福沢諭吉の全てを吸収しよう(諭吉の向こうに在る世界中の宗教や思想を学ぼう)と、必死に西洋の言葉や科学・哲学の教養を身につけました(福沢諭吉をして「これまでの塾生の中で屈指の学習欲を持っている」と言わしめた。真言宗の土宜法竜と釈宗演は慶應義塾精神界の二大明星)。
仏教を古い因習や迷信から解き放ち、真の精神を近代に即応した形で説こうと考えた宗演師は、まさに近代禅僧の先駆けでした。