野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体 Ⅰ活元運動 序章 私の整体指導― 潜在意識は体にある!1

 今回から序章に入ります。この内容は2011年に出版された『「気」の身心一元論 心と体は一つ』の序章二が基になっており、『「気」の身心一元論』冒頭には次のように述べられています。

本稿は、たにぐち書店『月刊手技療法』2005年8月号、巻頭インタビューの取材内容(当会会報No.15「潜在意識は体にある!体と心の神秘」に大幅に加筆し編集したものです(『病むことは力』五章の内容と重なる部分があります)。

 それから、また!加筆、推敲したのが本稿です。

1 野口整体の原点・愉気法― 輸気から愉気へ・手当てから始まった野口整体の気の世界

 野口整体の起源は、大正12年(1923年)の関東大震災の折、当時12歳の野口少年が「手当て」を行ったことにあります。

 震災で入谷(東京上野)の家を焼け出された野口家は、付近に焼けトタンでバラック小屋を建て生活をしていたそうです。この時、あちこちで下痢に苦しむ人たちが出たのです。

 大震災直後の東京では、上下水道が壊滅した衛生状態の悪い中、赤痢チフスが蔓延し、多くの下痢患者で溢れていました。

 それで、野口少年を可愛がってくれていた近所の「煮豆屋のおばさん」が、腹痛で苦しんでいたのに対し、お腹にじっと手を当てると、おばさんは眠ってしまったそうです。しばらくして眠りから醒めるとすっかり良くなっていました。

 同じ様にして、近所の下痢で苦しむ人たちに手当てすると、みな治ってしまったのです。

 これが伝わり、神童野口少年の噂が広まって、方々から下痢患者が集まるようになったそうです。こうして、このおばさんを癒したのが「野口整体の起こり」となりました。

 当時のことを、師野口晴哉は「やむにやまれぬ気持ちで手を当てると、不思議に下痢が治ってしまった」と語っていました。

 関東大震災は、日本の近代化においても象徴的な大事件でしたが、明治・大正、昭和前期は、維新以来の近代化の中で、外国船が運ぶコレラ結核など様々な伝染病が蔓延した時代だったのです。

 その後の昭和元年、野口少年は15歳で道場を開き、名前も野口晴哉と改め、本格的な活動を始めたのです。そして、その天才ぶりは、17、8歳には大家として認められるというもので、師の活動の基盤となった全生思想は、この頃萌芽しました。

 この若き頃は勇ましく、「気合術」による治療といったもので、愉気法(手当法)は当初、輸気法と書いて「気を輸(おく)る」ことでしたが、次第に愉快な「気で人を包む」という方向に進まれたのです。これが「愉気法」です。

 このことを、師は「母親が赤ん坊を抱いている姿を見て、あれだ!と気づいたのです。」と話されました。

 これは、母性による優しさであり、「慈しみ(慈悲)」でもあります。師は、治療家における霊性開発の一端をこのように述べていました。

 世の中の生き方を説いた『イソップ物語』の中に「北風と太陽」という話がありますが、北風は最後に太陽に負けます。

 これは、儒教で説かれている覇道(はどう)に対する王道とも言えます。覇道とは武力や権力によって国を統一し、治めようとする者の道です。一方、王道とは道徳を以って天下を治める者の道で、力ずくでの解決と、心による解決との違いです。

 男性的な力は、ややもすると覇道になりやすく、女性的な力、やわらかい弱い力が必要なのです。このようなニュアンスの違いが輸気法と愉気法です。

 相手の中にある健康なはたらき、健康であろうとする気と感応(共鳴)(註)するのが愉気法です。鉄片が磁化する(磁石に付くと磁力を帯びる)ように、元の気がはたらき出すのです。

 このような心と、呼吸法(深息法)による気の技術である愉気法が野口整体の基盤にあります。

(註)

感応 手を当て、気を集注すると、それに応じて相手の内の力が発揚されること。心を一カ処にずっと集注して、その密度が亢まると「気の感応」が行なわれる。

愉気 愉気は、「何とはなしに愉快」な状態で行うのがよく、雲のない空のような「天心」で行うのを理想とします。

 心が静まり、雑念が消えると(無心になり)、やがて天心が現れます。天心であれば自然に気は感じ合うもので、言葉がなくとも相手の心が感じられるようになります。この時、「愉気をしよう」と思わずとも、愉気が行われているのです。

 始めは相手の体の一部に愉気しているつもりでも、いつしか相手の全身に、心そのものに伝わるようになっていくのです。さらには、生命そのものに呼び掛けていることが分かるようになります。