野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 序章5 気を集めて身体を観ることで分かる心― 身体に「表情」を読む観察眼と「からだ言葉」

 今回の内容は、前回に続き個人指導での観察についてです。『ユング心理学野口整体』第一章でより詳細に先生の見ている〔身体〕について述べていますので、そちらも併せて読んでみてください。

 

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5 気を集めて身体を観ることで分かる心― 身体に「表情」を読む観察眼と「からだ言葉」

 私は、個人指導での〔身体〕の観察(パターン認識)を通じて、「からだ言葉」が身体上に現れているのを観て来ました。「からだ言葉」の通りの感情体験があったことを、多くの〔身体〕が物語っていたのです(肩身が狭い、腰が引けるなど)。
 ある人の個人指導では、腰が入って立姿になってもらった時、「どのように感じますか」と尋ねますと、「足の裏がピタッとし、しっかり立てている感じです」と答えました。
 そんな時、「これが、地に足が着くというのです」と言いますと、「地に足が着くというのは、感覚を伴った言葉だったのですか!」と興奮して話す相手に、私がびっくりするというわけです。現代では、頭で「からだ言葉」を知っていても身体で理解しているのではないのです。
 私は、からだ言葉の意味と同じ感情がその人に生じ、その言葉の通り実際に体が変化し、その感情が体に持続しているということを、数多くの臨床によって確かめて来ました。
 私が、相手の身体に多くの「からだ言葉」を形容できる状態を観察できたのは、「腹が立つ」「頭に来た」、「肩身が狭い」「腰が引ける」、「へそが曲がる」「溜飲が下がらぬ」など、その他たくさんの例がありました。「浮き足立つ(←→地に足がつく)」というのも、アキレス腱が硬くなって踵が浮くことで、すぐに分かります。
 そして、「嫌なことがありましたか」といった言葉掛けをすることで、その人が自分の心の内を語り始め、硬くなっていた心身が弛み、我に帰って落ち着きを取り戻していくという指導を行なって来たのです。
 その他、日本語は擬態語が非常に多いのが特徴なのだそうですが、私は指導時に「カチンと来た」「プリっ」などといった言葉も使い、本人の感情体験を共有しています。
日本語に「からだ言葉」が存在したことは、昔の日本人がいかにも「身体感覚」が高く、自分の身体を通じて他者(の心)を捉えることができていたと思えるようになったのです。
 このことは、実は人との「気によるつながり」を意味しているのです。
「からだ言葉」は、自分の気持ち・感情を、身体できちんと感じることから生まれ使われて来ました。かつての日本人は人の身体全体の表情を捉えることによって相手の心を観ることができていたのです。これは、日本人の「身体意識」というものです。
 身体(生理)感覚が鋭かったかつての日本人は、想いや感情を即、体に観ることができる眼・感性というものを持っていたからこそ、多くの「からだ言葉」が残っているのだと思います。
 私が個人指導で人を観る眼というものは、このような「感性」によっているのです。それは「気」で観ることです。統一体によって、気を鎮め亢めて観るのです。
「気で観る」とは、観る人の「気」の質によっても、観える相が違ってくるものです。言い換えると、「レンズ」の色や性能によって「スクリーン」に映る像が違うわけで、人を観る目を養うには、長年の経験を必要とします。
 そして、「無心」に観ることを修行するという「禅」の心が必要なのです。