野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体 活元運動 第一章一2 錐体外路系の訓練― 活元運動を行なうことは「裡の力の自覚」

2 錐体外路系の訓練― 活元運動を行なうことは「裡の力の自覚」

 疲れて体を休める時、自分に合った姿勢をしたり、睡眠時、疲労調整のため寝相で体を転々としたり、また、痛い処を思わず押さえたりします。

 この、意識しないで(意図せず・無意識に)体が動いてしまうことや、動作時の力加減や姿勢などを調整するはたらきが、生理学で「錐体外路系錐体外路性運動系(註))」と呼ばれるはたらきです。

 生活している場で、普段はすらすら運んでいても、つまづいたり、体をぶつけたりすることがあるのは、このはたらきが鈍っている時なのです。

 意識しての(=随意)運動は、錐体路(註)のはたらきによっています。錐体路は後頭部で交叉しており、左の頭で命令して右側の体を動かし、右の頭で命令して左側の体を動かしています。

 この錐体路以外の、意識しないで行ってしまう運動を司るのが、錐体外路系です。野口整体では心臓や胃腸のように自律的な不随意筋の運動も、錐体外路系運動の一環として捉えています。

(註)運動系

 神経系のうち、全身の運動(動作)に関わる部分をいう。運動系は、随意運動を司る錐体路と、その他の錐体外路性運動系に大きく分けられる。錐体路が解剖学的な実体であるのに対して、「錐体外路」という神経路は解剖学的には実在せず、これは不随意運動(動作)を司る神経系の総称である。

 私たちが「生きている」ということの大部分は、無意識に行われる錐体外路系のはたらきに依っているのです。

 活元運動とは、このはたらきを訓練することです。

 師野口晴哉は「活元運動を知らないで生きているというのは、免許証を持たないで車を運転しているようなものだ」、と語りました。そして、「自分の裡のちから」の自覚について、次のように述べています(『風声明語』人間の裡の自然)。

自覚はちから

 活元運動を行なっている人々は、自分の裡にはかりきれない程のちからのあることを自覚します。自覚は又ちからです。

 自分の裡のちからに気づかない人は、少しのことにおびえたり威張ったりして、冷静にものごとの経過を、特に自分のことだと見極められませんが、ちからを自覚した人は自ずと、その時そのように対処する構えをしております。同じ人かと思われる程異なって見えることも少なくありません。

 健康であるということはつくりあげるものではない、自然のことだというような簡単なことでも、生きるちからの自然のはたらきを知り、そのちからがあることを自覚した人でないと、平素はそういっても、イザという時には乱れるものです。自覚ということはちからです。

 活元運動は「自分の健康は自分で保つ」ための修養法であり、これを通じて「身心」を修養することは、問題に直面した時、それを乗り越える「心の力」を養なうことなのです。