禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 二1 活元運動は偏り疲労を調整する
二 「整体になる」ことで潜在生命力を喚起する
整体とは、いつどこででも
活元運動が発動している状態である
今回から始まる二では「整体とは何か」が主題です。
整体と言うと一般的な意味と同様「体の治療技術」だと思う人が多いのですが、野口整体で言う「整体」は整った「体の状態」のことを意味します。
それも動じない、ずっと変わらないという静的・硬直的な意味ではなく、敏感に反応し、よどみなく流れ変化する動的・弾力的な体の状態です。
しかし今、体温が平熱より少しでも上がれば異常だと思ってしまうなど、症状の多くは西洋医学的な観点から見ても体の正常な反応、必要な過程であることを知らず、不都合なものとして薬で止めてしまう人が多くなっています。
こうした傾向がもともとあったところに新型コロナウイルスの問題が起きて、症状に対して不安を感じる度合いがさらに強まったように思います。活下運動や愉気などの身体的実践も大切ですが、「整体とは何か」を理解することも野口整体の実践の一つであり、野口晴哉は「生きるための教養」と言い晩年は特にその点の理解を求めたのです。それでは今回の内容に入ります。
1 活元運動は偏り疲労を調整する― 巷の“整体”とは、よほどの相違がある野口整体
長い間絶版となっていた師野口晴哉著『整体入門』(初版は1968年で、私がこの道に入った翌年のことです。これにより、より広く外部に向けての広報が始まったと、思いを新たにした)が、2002年6月文庫化(筑摩書房)されました。続いて翌年2月、『風邪の効用』(註)(1962年初版)が同じく文庫化されましたが、この二冊を合わせた販売部数は、2011年末には四十万部に迫るものでした。
(註)『風邪の効用』 には「風邪を引くことは、疲労で硬直したり鈍くなったりした体を調整、再活性化する役割を果たしている」と、風邪は自律的なはたらきである、と述べられている(病気は、生命を活性化させるための合目的的作用)。
「自然治癒力(自己治癒力)」に信頼を置く野口整体は、「潜在生命力を喚起する」ことを目的とし、個人指導(註)と活元運動という行法を柱としています。これらは、「全生」思想を基盤に成り立っているものです。
(註)個人指導 整体操法という技術的手段を用いての整体指導法に拠って行なわれる。
直木賞作家の伊藤桂一氏は、『整体入門』の解説「潜在する自己治癒力」で次のように述べています。
…整体につながっている人たちは、風邪を引くと「風邪が引けてよかった」と思う。なぜなら風邪は、それを整体的手当で経過させた時、実に爽快で、新たな生命力の充実を感じ、思わず「風邪よありがとう」といってしまうほどだからである。そして、日々の生活と取り組み、疲れは活元運動でほぐしてゆく。ことに偏り疲労を調整してゆく。
…整体では「全生」という言葉を信条としている。整体的に生きていれば、死ぬ時も苦しまない、という考え方である。死ぬ時なぜ苦しまないかというと、与えられた生命を完全に燃焼し切れば、苦しむ必要がないからである。死の直前まで、生き生きと仕事ができる。何年も、身体不調で寝込んでしまう、という厄から免かれたいのは人情である。そのため、整体を知っている人は、つとめて整体的な生き方(つまりは死に方)を心掛けている。
…整体は、生命を励ます健康の哲学だからである。この本には、その原理が、わかりやすく説かれている。整体では、治療とか治病とかいう言葉は使われていない。人間は自分の力で自分の症状を癒すので、整体操法者は、その潜在する自己治癒力の喚起を手伝うのである、と。
…巷間に整体の名を謳う幾多の療術と、野口晴哉先生の整体法とは、よほどの相違のあることは、私のこの小文でも、おわかりいただけるのではないか、と思う。
整体指導者は「潜在生命力を喚起する」ため、整体操法を施すのです。「人が治る」ということは、いかなる場合においても、「自身に具わっている生命のはたらき・自然治癒力」に依っているからです。この自然治癒力喚起のため「活元運動が発動する身心に導く」ことが指導の中心となります。
しかし、巷間で行われている “整体”とは、そのような「技術を振うこと」であって、「整体的な生き方(思想)」という意味を含むものではないのです。 整える技術を「整体」と呼ぶのか、技術を通しても、その結果の「整った体」を整体と言うのか、という違いがあるのです。
そして、被指導者においては、自身が「整体になる」という自覚の下に、生活する中で「整体とは」と、自身の意識状態について問い続ける姿勢が肝要です(「整体」は自己実現のための型だからである)。