野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第一章 二2 病気は体の自浄作用

2 病気は体の自浄作用―「健康とは病気にならないこと」ではなく、「病症経過」を通じて弾力ある身体を保つ

 活元運動は、始めから独学でのみ習得することは容易ではありません。なぜなら、運動の状態がこれで良いかどうかの判断が自分ではつかないからです。それは、長い体験を経た指導者を通じて、実践することで運動の質を養っていくものです。そして実践のみならず、その思想を理解しつつ体験を深めていくことが肝要です(知行合一)。

 活元運動の起源は霊動法にあり、霊動法と類似するものは、世界中にあるのです。活元運動と霊動法、あるいは類似するものとの相違は、その思想にあります。

 その思想内容の特筆すべきは、「病症を経過する」という野口整体の革新的思想なのです(これは、病症理解における西洋医療との大きな相違)。この意味で起源とする霊動法との相違も明確であり、他の類似するものとなるとなおさらです。

「病症経過」の考え方は、師野口晴哉の脱近代的思想と言えるものです。師は活元運動について、次のように述べています(『月刊全生』増刊号)。

晴風

 人間の体は絶えずどこかが毀れている。そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区分はつけられない。

 すり傷はヒリヒリ痛む、しかし強い打身は痛みを感じないで、後になって大きな変動の基となる。癌にしても、肝硬変にしても、脳溢血にしても、皆その間際まで自覚症状がないが、それを、倒れる直前まで健康だったと言えるのだろうか。

 私は多くの人々に活元運動を奨めてきたが、その目的は体を整えることであって、病気が治ったり、病気にならなくなったりすることではない。異常を敏感に感じて素早く対応できる体にすること(これが整体指導)であり、弾力ある体の状態を保とうとする働きを活発にすることを言うのである。「健康とは病気にならないこと」という観念から脱却すべきだ。

 私が実家に行った時のことですが、久し振りに見る父親の坐っている姿に異様さを感じたことがありました。胡坐で蹲るように坐っていた、以前とは大きく異なるその様に、私は「あんなに背が丸くなった!」と、その印象を兄弟に告げたことがありました。父親が脳梗塞で倒れたのは、それからまもなくだったのです。

 観方は容易くありませんが、医学的に大きな変動の前には、このように身体全体が変化を起こしているのです。しかし、異常を感じていない(身体の変化に対する自覚がない)のです。

 こうした異常を感じない体を、「偏り疲労が起こって風邪を引くべき時に引けない」と、師は「無病病」と名付けました。異常感があって、回復の要求が起こる(恒常性維持機能がはたらく)のです。それで師は、整体とは「異常を敏感に感じて素早く対応できる体」、と説きました。

 事実、活元運動を行うと、症状が円滑に経過するのみならず、熱が出たり下痢をしたり、ずっと以前に怪我をしたところが痛んでくることがあります(古傷(打身)は痛んで本当に治る。同様に心理的な痛みが再現されることがある)。

 悪いもの(体に余分な食べ物)を食べて嘔吐したり、下痢をするのは体の正常なはたらきであり、活元運動の発現なのです。この時、慌てて下痢を止めたり、発熱時に解熱剤を服用するのは、体の自然な調整作用に逆らうことです。調整作用であることを理解せず、病症を抑えつけ症状を取り除くことに執心する(=内なる自然治癒力を否定する)ことで、体のはたらきはだんだん鈍くなっていくのです。

 師は、癌・脳卒中・肝硬変という病気は、体が鈍くなって(再活性化機能が衰退して)起こるものだと説き、風邪を引くことも、疲労で鈍くなった体を再活性化する役割を果たしている、と説きました。

 風邪を引き、きちんと経過した後は、引く前より体調が良くなるという、病症は生命を活性化させる合目的的作用なのです。合目的的とは、人間が生きて行く上で必要な恒常性維持という目的に適っていることで、「病症が身体を治している」というのが、野口整体の思想です。

 愉気や活元運動を実践する野口整体の目的とするところは、むしろ「病症の発現」を含めた、このような「身体の自律的機能を高め維持する」ことなのです。