野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第一章 二3 健康と病気を二元的に区分する西洋的知性と、一元的に捉える野口整体の思想①

 先週、日付設定を間違えて記事を更新できませんでした。申し訳ありません。今回は生物学者福岡伸一の著書をもとに健康と病気について論じた内容です。引用が長いので、さっそく本文へと入りましょう。

①生命は体を壊しながら作り替えている―シェーンハイマーの動的平衡

 生物学者福岡伸一氏は、従来の西洋・近代科学の静的な生命観である「機械論」的見方について、

分子生物学(註)的な生命観に立つと、生命体とはミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないといえる。デカルトが考えた機械的生命観の究極的な姿である。(『生物と無生物のあいだ講談社

と述べています。

(註)分子生物学 生命現象を分子を使って理解する学問で、DNAの二重らせん構造の発見以来、本格的となった。

 このように、近代(西洋では15~16世紀以降)という機械が発達する時代を通して、生物・人間をも機械学的類推による理解を是としてきたのが、現代までの歴史でした。

 これに対し、福岡氏はユダヤ人科学者シェーンハイマー(註)の研究(1933年)に注目し、現代の主流である静的な機械論的生命観ではない「動的平衡」という生命のありようを紹介しました。

(註)シェーンハイマー(1898~1941年)

 第二次大戦前の1933年、ナチス・ドイツから逃れ米国に亡命し、コロンビア大学で研究を行った。

 当時は、細胞の老化や損傷による組織の置き換え(細胞分裂)以外に、食べ物と体の間で栄養素分子が交換されることは無いと考えられていた。人間にとっての栄養素は、車におけるガソリンと同様に考えられており、これが静的な機械論的見方というもの。

 しかし、シェーンハイマーは食べ物の中のアミノ酸分子にアイソトープ同位体)を使って標識を付け、アミノ酸分子が三日ほどでそのまま全身(脳、筋肉、消化管、肝臓、膵臓脾臓、血液など)の組織を構成する細胞内のタンパク質と置き換わることを発見した。その分、身体を構成していたタンパク質は捨てられる。彼は、こうして食べ物がそのまま「血となり肉となる」ことを、科学的に証明した。

 

 福岡伸一氏の『生物と無生物の間』、『動的平衡』(木楽舎)がベストセラーとなる現代では、「人間にとっての栄養素は、車におけるガソリンと同様」と考えている人は少なくなっていることと思いますが、シェーンハイマーの研究当時のみならず、最近まで多くの人が機械論的見方であったことと思います。

 氏は「生命とは動的平衡にある流れである」という、動的な生命観について次のように説いています(『動的平衡』第8章 生命は分子の「淀み」)。

可変的でありながらサスティナブル(永続的)

…つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズム(力強さ、活力)の中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのだった。

 まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだった。

 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。

「動的な平衡」とは何か

…生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。

 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時(いっとき)、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的な平衡」という素敵な名前をつけた。

…サスティナブル(持続可能)であることを考えるとき、これは多くのことを示唆してくれる。サスティナブルな(持続性のある)ものは常に動いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブル(生命の持続性)は流れながらも、環境との間に一定の平衡状態を保っている。

 一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。サスティナブル(生命の持続性)は、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。

多くの失敗は何を意味するか

 シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子(物質を構成する基本の粒子)レベルの解像度(=分子交換の可視化と食物と体重測定による数値化)を保ちながら、コペルニクス的転換をもたらした。その業績はある意味で二十世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う。

 しかし、皮肉にも、このとき同じニューヨークにいた、ロックフェラー大のエイブリーによって遺伝物質としての核酸(DNA)が発見された。そして、それが複製メカニズムを内包する二重らせんをとっていることが明らかにされ、分子生物学時代の幕が切って落とされる。

 生命と生命観に関して偉大な業績を上げたにもかかわらず、シェーンハイマーの名は次第に歴史の澱に沈んでいった。

 それと軌を一にして、再び、生命はミクロな分子パーツからなる精巧なプラモデルとして捉えられ、それを操作対象として扱いうるという考え方がドミナント(支配的)になっていく。必然として、流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は捨象(度外視)されていった。

 ひるがえって今日、外的世界としての環境と、内的世界としての生命とを操作しつづける科学・技術のあり方をめぐって、私たちは重大な岐路に立たされている。