禅文化としての野口整体Ⅰ 第一章 三2 意識を閉じて体の自然に任せる― 無心・天心
本来の体育としての活元運動について、師は「雑念・意識・無心」を挙げ、次のように述べています(『月刊全生』1969年5月 活元指導の会)。
本来の体育2
…ともかく、生きているということの自覚のないまま、みんな他人任せで、自分の健康管理まで人のせいだと思い込むような人がたくさんになったのでは、いくら医者を増やしたって足りるわけがない。やはりみんな自分の体は自分で責任を持つことが大事です。
自分で管理して自分の体を壊すようなことをしないで、もし壊れても自分の体の力で治っていくようにならなくては駄目だと思うのです。そのためには難しい方法がいるのかというと、そうではない。
いろいろな雑念(を無くし)、意識を閉じて、体の自然に任せればいい。意識を閉じて整う。無心になって整う。知識を全部捨ててからっぽにして、生まれたままの心(天心)の状態で、ポカンとしていると、ひとりでに整うのです。( )は金井
「他人任せ」となったのは、近代西洋医学の「客観的身体観(体に起きていることと自分の心が切り離されている)」によって、患者は、医師に「管理される者」となったからです(また、科学は見るものと見られるものに分かれている)。これがお任せ医療で、客観的身体観を育んだ近代科学には「生きているということ」を、どう自覚するかはないのです。
活元運動が出ると雑念が祓(はら)われていき、それで無心となるのです(雑念がいかにその人の人生を損ねているかは、天風哲学と合せ下巻で詳述)。雑念とは、いわば負の感情想念の、気づかぬ、意識しない滞りなのです。
負の感情想念が起きても、じきに流れる(忘れる)心のありようが「天心」なのです(「整体」であるその心は、無心・天心)。
活元運動は「動く禅」とも呼ばれ、無意識に具わる「潜在能力(自然治癒力を含む)の発現」を目的とする瞑想法(註)なのです。
(註)瞑想法
外からの刺戟を遮断し、意識の表面にはたらいている抑制力を弱め、その下にかくれている無意識のエネルギーを活発にする訓練を意味する。
天心とは、無心となってぽかんとすることです。幼いころは皆そうでしたが、大人になって天心を保つことは簡単なことではありません。師は次のように続けています。
本来の体育2
…天心になって、体の欲している自然の要求通りに体を動かせばそれでいいのであって、そう複雑な方法がいるわけではない。…体はみんな自然に健康に生きようとし、育っていこうとしているのです。…自然に生きていれば健康になるようにできているのです。
…自分の体の力を自覚して、自分で自分の体を丈夫にして生きていく決心をして、そしてその方法としては天心、ポカーンとして自分の動きに任せるというだけでいい。…人間の体の本来持っている力を自覚するようにしなければいけないのだと考えております。
「自然に生きていれば健康になる」とありますが、自分における「自然」を、個々において探求することが求められると思います。それは「自然」を妨げているものに、自分の心において気づくことです。
このようにして、自分が持っている力(無意識に具わる能力)の自覚を教えるのが活元運動の思想です。