野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 二4 鉄人の心の問題がスポーツでは解決しない理由①

 私は3で、この〝鉄人〟が「スポーツで体力をつけ、弱い心を堅固にしようとした」と述べましたが、競技スポーツとその訓練が彼の身心の本質的な問題を解決しなかった理由を、生理学的に考えてみたいと思います。

① 近代スポーツと野口整体の「体育」

 ある医師はこのトライアスロンの鉄人について次のように解説してくれました。

スポーツのレベルにもさまざまな段階があり、一流と言われる人達の運動は錐体外路系が優位で、初心者はその動きの多くが錐体路系の運動です。

トライアスロンは、泳ぐ・こぐ・走るという基本動作の競技です。おそらく競技者の中には、滑らかで無駄の無い外路系の動きの選手と、硬くぎこちない力んだ錐体路系の動きの選手が混ざり合っていることでしょう。

そして、この男性は間違いなく後者だったと思います。長距離、長時間を競う競技の一流選手で、筋骨隆々の体つきの人はいません。彼は筋トレによって作られたがっしりした体で、体表に近い表在筋を主体に使い、ザバザバと水飛沫を大きく立てて泳ぎ、力強く走っていたことと思います。背骨周りの深部筋を中心とし表在筋の力が抜けた、軽やかでしなやかな動きではなかったと思われます。

 このように競技者のレベルには段階(と個人差)がありますが、西洋のスポーツは、近代的な心身二元論(理性(頭)が体を支配=心身分離)的思想による、意識的な計らいに基づく(意思で体を動かそうとする)訓練法というものです。

 このような考え方に基づく訓練は、自我意識が身体に対する支配力を高めることや、ある目的に適った方向にのみ身体機能を高めることが目的になりがちです(心と身体=主体と客体の二元性。これは自然な状態・脱力した状態を見失わせる)。

 またスポーツは、基本的に自律系の器官との関係は考えられていない(呼吸・消化・循環・内分泌機能・代謝などの、不随意な機能の健康な状態への発達は目的としない)のです。

 師野口晴哉は「西洋近代の身体訓練の方法」について、次のように述べています(『野口晴哉著作全集第五巻 上』健康生活の原理 全生社)。

体育

体育ということは、運動競技をすることでも、運動競技が上手に行なわれることでもないのであります。体育の目標は体の正常な発育発達を図り、活動力を高める、つまり心身の溌剌とした状態を保てるような体になり、人間の進歩向上に役立つようにすることにあるということは繰り返すまでもないことでしょう。

体の正常な発達とか未発達とかいうのはどういうことかと言うと、その体の全体がつり合いがとれ、体そのものの緊張弛緩、つまり体自身の運動がスムーズに行なわれている体を造ることであります。腕だけ発達したり、脚だけ太くなったりすることも、随意筋だけ発達して内臓が従いて行けないような体も、勿論この目標にあっているとは申せません。

運動競技の効用は、走り、飛び、投げ、打ち、よじ登り、滑ることが正確に機敏にでき、リズミカルに動作できるようになることであり、それが体を安全に保つ能力の基になるからでありましょう。

また体の欠陥を知って矯正のことを考えることのできるようになることも、また効用の一つと言えましょう。しかし現代の体育競技の大部分は意志による随意筋運動に集中しておりますので、ともすると偏った発達を促し、体の安全を養うということにはならないことが多いのであります。

 右の引用文に書かれている「体育」という言葉の意味は、文字通り「体を育てる」ことで、「競技能力を発達させる」ことではないのです。