野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 三 活元運動の実践 1

 このところ所用で更新できず申し訳ありませんでした。今日からいよいよ活元運動の実践編です。

1 活元運動は感受性の訓練― 明瞭な意識が「裡の要求」を見極める

 師野口晴哉は、講義の中で「心と体は同じもの(身心一元)」と、くり返し語っていました。当時何気なく、この言葉を聞いていた私は、三十年ほど前からやはり何気なく、これを人に語るようになっています。今では、長年の整体指導を通じて「心を識るのに体を観る」というのが、ごく自然なこととなりました。

 当節日本では、西洋的な「考え方で生きる」ことが一般的になり、働く女性の多くも「頭で生きる」生活となっています。

 頭で考えたことが心(体)に合致している場合は良いのですが、頭(意識)を使い過ぎると、心(感情)や体(無意識)のことが解らなくなります。その結果、体に背いたままの生活により、生理痛や生理不順は当たり前となってしまいます。いや、体は、生理痛により「体の自然」を取り戻そうとしているのです。

「体の自然」を取り戻すには「心による生活」を大切にせねばなりません。会社や仕事のありようが変わることは容易ではありませんが、せめて私生活においては、自らの「正体(しょうたい)」を取り戻すことを通じて、自身の「心の自然」を確保することが肝要です。

 心の自然を確保するとは、「裡の声」を聴くことに他なりません。心と体から発する自然な要求のことを「裡の要求」と言います。

 師は「裡の要求」について、次のように述べています(『整体法の基礎』第二章  活元運動  全生社)。

(四)

…人間は裡の要求によって生活し行動しているのです。要求は全て運動系の働きで果たしている。だから人間の体の中の要求を、どんどん運動系に出さなくてはならない。そして要求が素直に現われるようになれば、自然に健康なのです。

その運動系と要求の問題を無視して、健康をつくるつもりで、いろいろと細工をしてみても、それは飽くまでも細工にすぎない。丁寧に噛むというのも頭でつくった食べ方です。お腹が空けばガツガツ食べる方がずっと正常です。

何時になったから食べるなどというのも、こういう物は栄養があるからと言って食べるのも、頭での食べ方です。その時の自分に適う物を食べなくてはならない。

…活元運動は、自分にだけ適う運動をやります。そういう面で活元運動は、既成の体操に比べて、自分の体の要求を果たすとか、自分の体の要求によって動くとか、自分の体力を積極的に発揮するとか、調節するとかいう目的にみんな適っている。

「裡の要求」というのは、「昼食に何を食べたいか」に始まり「自分の人生を如何に生きるか」までを含み、ここには、多様性と奥深さがあります。「体を整える」とは、裡の要求をきちんと感じられることに目的があるのです。

 はじめに でも引用しましたが、師は「健康と要求」について次のように述べています。

晴風

健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。

どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。

楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべきである。

 この文章は「健康の原点」を端的に説いています。

 体を調え(調身)、心を静める(調心)ことで裡の要求を感じ取ることができます。活元運動は、要求に順って生活できるよう体を訓練するものです。こうして、快という感覚を通じて、身体に具わる主体性を育むのが野口整体です(こうした禅的修養の世界)。

 身心を活元運動の動きに委ね、四肢五体の硬張りが解きほぐれると、心が静まり意識が明瞭になります。そして運動の洗練は、裡の要求をよりはっきりと意識に伝えます(註)。活元運動を行ずるに当たっての師の言葉「意識を閉じて無心に聴く」とは、このことです。

活元運動は、意識の明瞭さによって、今、自己の要求するものを見極めるための「感受性の訓練」なのです。

(註)無意識(身体)には、生きてゆく上での真の目的に適った方向を教えるはたらきが潜在している。(意識に対する無意識の補償作用。上巻第一部第五章三 2で詳述)