野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四5 静中動・動中静― 活元運動は動く禅

 活元運動は「動く禅」と呼ばれ、坐禅同様、大脳の外側にある新皮質が沈静化し、内側の古い脳(大脳皮質下の辺縁系と脳幹)が活性化するものです(新皮質は意識脳と呼ばれるのに対し、辺縁系以下は無意識脳と呼ばれる)。

 それは、体が動いて脱力することで新皮質が休まると、辺縁系が活発となり、さらに脳幹部が活性化するのです。

 また、背骨の動きが良くなることで脊髄の反射機能を回復させます(脳幹(=間脳・中脳・橋・延髄)の下部に脊髄が連なる。)。

 禅の「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)(戒律・禅定・智慧)」とは、「自分を戒め、心を落ち着ける(定)ことで本当の智慧が啓かれる」という意味です。「身体智」とは、この「智慧」を意味しているのです。

 師は活元運動によって心を澄ませてゆくことについて次のように述べています(『風声明語』)。

動く坐禅

…活元運動を行なっていると、いつの間にか心は統一してきます。統一しようとか、入定しようとか余分な考えは捨てて、ただ活元運動を行なうことがその秘訣です。裡の要求で無心に動く、その自然の動きの中に統一への道があるのです。

 心は心のはたらきで動く他に、筋緊張によって自動的に働いてしまう性質を持っているのです。それ故歩き乍ら考えたり、考え乍ら話をしていると、手や体をいろいろと動かしてしまうのです。それ故筋の張弛(金井・筋肉の緊張と弛緩)を無視して心を静めようとしても、逆現象を生ずることが多いのです。寧ろ余分に硬直している筋を弛め、過度緊張の筋を柔らげる方が心は静かになり易いのです。

 そう考えると、活元運動によって心を澄ませてゆくということは間違っておりません。意識して動かすことより、無意識に動く活元運動の方がより適していると申せましょう。

 正坐が「静」の瞑想法であるのに対して、活元運動は「動」の瞑想法なのです。

私が身体の観察をする(形を捉える)時、その要点は裡なる動きを観ているのです。正坐して外的には何ら動かない状態であっても、裡が活動的な身体には、その動きを感得することができます。それの最も良い姿は、まさしく「今、ここ」という禅的な状態です。

 しかし、同じく正坐した「静」の状態でも、裡に動くものがない状態は、心が停滞している場合です。停滞とは、何らかの感情的な滞りなのです。これらの判断基準の中心に重心位置の問題があります。

 先の「今、ここ」という、ぴたっと正坐が決まる状態は腰椎に重心が定まっています。この時、私には裡の「動」というものが感じられます。

 高校時代、「保健体育」担当で剣道部の顧問をされていた先生に「静中動・動中静」という言葉を教わったのですが、「静中動」とは、まさしくこのような状態です。こういう時、私は静まり返った身体の中に、活動的な精神のはたらきを感じることができるのです。

 一方「静」に対して、「動」の場合があります。それは独楽が高速で回転している時、その動きの中心が静止しているように、「動の中心には静がある」のです。つまり活発な運動の中心には、動かない一点(丹田の自覚)があり、この「不動の中心」と呼ぶべきものを、室町時代の能役者・世阿弥は「無心」とか「空」と呼んだのです。これが「動中静」です。

この「静中動・動中静」という言葉は、思春期の私に根付いたのです。整った体とはこのようなものです。

自分の心が空(=無心・天心)になる(自分が空っぽになる)ことで、「生き宮(註1)」としての高度な「身体性」が発揮され、裡にある「神性(仏性)」を顕すことができるのです。

「身体智」とは「内在せる神なるはたらき」であり、何事も自然に任せ切るという行き方、つまり随神(かんながら)の道(註2)ともなっていくのです。

(註1)生き宮 神が降りる宮としての身体。

(註2)随神 神道とは、森羅万象を神々の体現として享受する「随神の道(神と共にあるの意)」であるといわれる。