野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四7 活元運動についての質問に答えるⅡQ4①

 今回の内容は、活元会におけるふるまいについての内容で、活元会に参加したことのない人の中には「え、そんな人いるの!?」と思う人もいるかもしれません。指導者個人の資質や許容範囲などによる部分と、参加者がどんな人か、またその場の雰囲気がどのようかなど様々な要素がありますが、そういう人を目にする可能性もあります。

 昔、野口晴哉に整体を学んでいた人で、戦後野口晴哉から離れて団体を設立した人がいました。その団体は今も手技療法の世界では一定の規模を保って存続していますが、その団体の創始者野口晴哉から離れた理由は活元運動だったとのことです。

 その人は活元運動を危険なものとみなし、活元運動によって抑圧された情欲がむき出しとなって、かなり荒れた、品性のない姿を会場でさらけ出す人が続出するとか、隠れた精神疾患の引き金になると考え批判していました。

 野口晴哉はそうした可能性が否定できないことは認めており、危険な兆候を見つけ、必要に応じて活元運動を止める技術のある人に活元運動の指導をさせていました。

 そして晩年、野口晴哉が活元運動を普及させるうえで最も大切にしたことは、「実践する人が活元運動をどのように理解するか」でした。無意識の運動と言っても、意識と切り離されているわけではなく、意識と無意識が溶け合っていくことが活元運動の大きな目的です。これがトランス状態や意識喪失、集団ヒステリー的な状態などと全く異なる点だと思います。

それでは今回の内容に入ります。

Q4 泣いたり、叫んだりする人が会場にいたのですが、これも活元運動ですか?

「本能的療法」であった霊動法から「身心の発達を目的とする体育」としての活元運動へ

① 活元運動という「本能的療法」に伴う哭き、叫び

 師野口晴哉は活元運動における感情の言語的、また身体的表現について、次のように述べています(『野口晴哉著作全集 第二巻』昭和十一年(一九三六年)(推定))。

触手療法のあらまし

 吾々が病気になって之を治そうとしても、何ら治療の武器を持たなかった時代には、如何なる方法を執っただろうかと考えてみますのに、最もプリミチーヴ(自然のまま)な原始の時代にありましては、先ず元気を揺すぶり起す、即ちからだを躍動させるとか、振動するとか、例えば古代日本の振魂(ふりたま)、鎮魂(たましずめ)の法(霊動法)の如く、人間のからだの裡に潜んでいる或る力を揺すぶり起すような、いろいろの所作をしたのでありましょう。

 苦痛に際しては泣き、喚(わめ)き、悶え、暴れ、転がる、そうして内面の力を揺すぶり起す機会を無意識に造ったのだろうと思われます。

 現に今日、吾々のしている欠伸、伸び、嚔(くしゃみ)、咳嗽(がいそう・咳)、嘔吐、下痢などは、肉体の違和に対する自然の本能的療法でありまして、之に伴ふ哭(な)き、叫び、呻(うめ)き、いきみ、又之に伴う手振り、身振りは、内在する自然の力を揺すぶる方法であることは、今も昔も変りがないのであります。

 又勿論一方には、手を当てて押す又叩くというような積極的に自分から自分の弛んでいる力を揺すぶってゆく方法もあったに相違ないのでありますが、何れにしても吾々の持っている裡なる力を振作して、身体の異常、又は病気に処してきたものに違いがありません。

 自分だけでは揺すぶり起し切れない場合、或はその及ばない部分に対しては、他人が立会って手を当ててそこを押さえたというようなことも考えられるのであります。

 吾々は今でもお腹が痛ければ、ふとお腹を押へる、ハッと吃驚(びっくり)すると思わず胸を押える、歯が痛むと自づと頬を押える。

 そうすれば痛みが去るだろうとか、こうしたら治るだろうとか、左様な思惑や目的を以てやるのでなく、ただ無意識に反射的に、極めて自然にやっている。その結果に就いてどうこうというような考えは少しもない。

( )は金井による。原文は旧仮名遣い。

 これは師が、触手療法、つまり愉気法を説明しようとしたものですが、その内容は、むしろ活元運動を説明するものとなっています。

 本能的療法としての活元運動には、引用文中にあるような面があってよいのですが、この文章は近代化が一通り終わり、古代日本に見られる、人間の自然を呼び起こすような宗教儀礼はすでに失われつつあった時代に、人間の「本能の力」を活かすことについて師が説いた内容です。

 また、当時は活元運動を行う上で、「病気の治癒」が目的の一つとされておりましたが、師はその後、治療という段階から教育(身心の発達を目的とする体育)へと進化していきました。