禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 二 感情がはっきりすることで意欲的になる 1
活元運動を通して啓かれた潜在意識
1「身心学道」の野口整体
現在日本でも、禅が静かなブームとなっており、2009年には「道元(1200年生)」を主人公にした『禅 ZEN』という映画が話題になりました。
1217年、道元は建仁寺(1202年、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の援助を得て栄西が建立)にて栄西(註)の弟子・明全に師事し、さらに宋に渡り「曹洞宗」を日本に伝えました。
(註)栄西(1141年生)
禅宗はインドから中国に渡った達磨大師を初祖とし、仏教の開祖・釈尊の悟りを追体験する宗派であり、そこに生きる生き方が「禅」。日本の禅宗の歴史では、道元以前に、中国・宋の時代、臨済義玄に始まる「臨済宗」を、栄西が鎌倉時代(1191年)に伝えた(二度目の宋からの帰国後、1195年、博多に日本最初の禅道場・聖福寺を建立)。
栄西は「心身一如」という言葉を遺しています。この言葉の、師野口晴哉における解釈を伝えたいと思います。
栄西の説く「心身一如」とは、心身が調和しひとつになった状態で、「悟り」を得ることのできるほど精神集中が深まりきっていることを意味していますが、師は「人はどのような精神の状態でも、いつでも『心身一如』なのです」と。
精神が調和しておらず、不調和きわまりない状態においても、身体を観ればその心の状態を察することができます。
一般的には、心身(意識)がはっきり、しっかりしている状態を「心身一如」と言ってよいのですが、実は、いつでも「身(み)」の状態は「心」の状態であり、この意味で「いつでも心身一如なのです」と、師は言われたのです。
このような意味から、身体の状態はそのまま精神のはたらきですから、野口整体は「身心学道(心に身を先立てる)」という道元の思想に近似しています。
「禅」による瞑想の訓練は、雑念をなくして、心が澄んだ状態を目指すものです。心理学的にみれば、これは自分の内に見出される特有の心の動き方に注意し、心のはたらき方をコントロールし、そのパターンを次第に変えていく訓練なのです。
仏教の修行法には「常坐三昧」と「常行三昧」があります。常坐三昧は「坐りつづける瞑想法(坐禅)」、常行三昧は「歩きつづける瞑想法(遍路や回峰行など)」という意味です。私は伝統的な修行法に則り、「正しい正坐」を常坐に当て「活元運動」を常行に当てています。
活元運動は「動く禅」と呼ばれ、頭を「ぽかん」とすることから始まります。こうして動きが出るようになると、動くことで心の中がよりからっぽになっていきます(→無心・天心)。
「自分とは何か、自分は何をしたいのか」と考えるよりも、「意識を閉じて無意識に聞く」という活元運動に身をゆだねることで、無意識の要求を受け取ることができるようになります(無意識と統合された意識状態になる)。
もちろん、散歩、ウォーキング、また登山など、自分の好みで「正しく歩く」ことをすれば、より積極的な常行三昧となります。