野口整体 金井蒼天(省蒼)先生の潜在意識教育と思想

野口整体金井流 蒼龍 整体の道51年で亡くなった金井先生の説く野口整体とは

巻頭 潜在意識は体にある!― 自分のことから始まった野口整体の道 一

8 浪人中に出会った野口整体

 その後、浪人生活が始まり予備校に行きました。それからは高校から解放され、随分気持ちが楽になったと思います。

 心機一転、四月からは結構勉強して、農学部に行くのなら、一番の学校と思っていた「北海道大学へ」と、進路を決めたのです。それは、「少年よ、大志を抱け!」のクラーク博士や新渡戸稲造に憧れていたという理由もありました。

 北大に行くべく、良く勉強して、夏休み前の模試では合格ラインに入っていました。

 その時、予備校の講師に愛知教育大学の先生がいまして、大学で少林寺拳法同好会があるからと勧められ、これを習ったのです。

 そして、少林寺拳法の中に整体法というのがありました。その整体法に興味を持ち、習ってくるとそれを母親にやっていたのです。「手で人に触れる」という感性があったのですね。私はがっちりした体でもなかったから、武術が強くならずとも、「これを身に付けておくといいな」と思っていました。

 そのような時、父親に送られて来ていた整体協会の『月刊全生』を目にしたのです。読んで「これだッ!」と思いました。それは、思想に感動したのです。

 直後に、父親が通っている名古屋の先生の所へ行き、整体指導を受け、師野口晴哉の本を買ったりしました。そして、しばらくして「こっちに行こう」と思ったのです。

これが「野口整体との出会い」というものでした。

 しかし、受験に対して若干迷うところもあり、せっかく勉強してきたから、医学部に行って必要な知識を勉強すると良いのかなという気持ちになって勉強を続けたのですが、そうなるともう身が入りませんでした。

 11 進み得る方向において観る

 師野口晴哉が亡くなった時、私は28歳でしたが、熱海に24歳で来て、師が亡くなるまでの間はがんがん仕事をしていました。

 師の「荒削りだが、いい」という言葉も間接的に頂いて励んでいました。

 ご自身亡き後、私の性質からして協会に残れないのは、師は解っておられました(時が経つほどに、私は自身を理解することで、このように思うことができました)。

 また、前年の秋には四段位を頂くことができたのです。プロと認められる四段位を、入門九年目で戴く、しかも27歳でというのは、稀なことだったでしょう。

 初等講座を一年やりますとほぼ準段位がもらえます。そして二年目中等講座で初段、その後高等に進んで二段、三段と進み、三段は整体コンサルタント(註)試験を受ける資格があるのです。

 コンサルタントを当分やってその後が四段位、それ以前は整体技術者、四段位からは整体指導者と呼ぶのです。27歳でそれが戴けたのです。

(註)コンサルタント とは コンサルティングを(問題点を把握し、対策を提案)する人。整体コンサルタントとは、人の体が「整う」ため、その「身心」の問題点を把握し、整体指導法を行う人。

  それは、1975年10月の京都高等講習会のことです。三人試験官がいまして、女性が一人、男性が二人。男性二人は反対で、三人が一対二でもめたようです。そして女性の臼井栄子先生という方が「じゃあ野口先生に決めて頂きましょう!」と持って行かれたら、師が「僕も良いと思う」と言われたそうです。

臼井先生は、師の最後の地方講習会(箱根 1976年5月)で、最高位の九段位を授与された唯一の方です。

 師は私の素質に対して、そして、その素質から出た少しばかりの光に対して、励ましの意味で四段位を出されたものと思っています。「進み得る方向において観る」ということでしょう。

 しかしこの二人には、当時の私にそれを観る力はなかったと思います。特に一人の方は、師亡き後、協会に残らない私への不満を臼井先生にぶつけたそうです。「なぜ、あれに四段位を出したんですか!」と。そしたら臼井先生が「あんたがあの世に行ったら、野口先生に聞いてみなさいよ」と切り返されたそうです。

 

 師亡き後、自分を守り育てていく。特に整体指導者として、私が自身を育てるには、外界からの刺激を受けないで「一人になり切る」、熱海の山の中に庵を結んで一人になり切るしかありませんでした。逆境に育った私の弱さであり、強さでもあります。

単純に「独りが良かった」とも言えます。これにより自分を癒し、「純粋培養することができた」と思うのです。これが、私が協会に残らなかった理由だと思います。

 私は母親のお腹にいた時から、人に充分守られて生き、育ってきたという時がありませんでした。そして、特に最近解ってきたことで、一番の理由だと思うのは、やはり特殊な感性があるのです。ものの感じ方が一般的ではないと思います。この感性が、仕事上の「型」となってきたのが、『病むことは力』に込めた内容であり、そして当会会報へと続いて行きました。

 師ほどの「徳を以ってはじめて理解し得るもの」というとなんですが…、他の人間にはほとんど理解されてきていないのです。

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6 心の師を求めていた高校時代

 中学では勉強ができるようになりましたので、担任も受験時期には、いきおい有名進学校を勧めたのです。

 ところが、その時に勘がはたらき、行きたくなかったのです。その明和高校は名古屋城に近く、歴史的にも良い場所にありましたが、指導の厳しい受験進学校で不自由な感じがしていました。

 当時、明和高校というのは、地元に強く、名古屋大学に一年に三百人ぐらい入っていました。

 東大や京大にも多く入ることで全国的に有名なのは、当会塾生の徳田君が出た旭丘高校というところですが、そこは自由なバンカラな気風でした。私の四つ上の兄は旭丘から名古屋大学理論物理学専攻)に行ったのです。そして私にも旭丘高校に行くことを勧めました。

 子どもの頃から何か兄に対して劣等意識があって、私は優秀な生徒が集まるところには行きたくないと思いました。遠距離ですが全く別の高校が意中にあったのです。しかし、結局は担任に押し切られ、明和高校に行かされてしまいました(それでも、合格した時は嬉しく、外聞の良いことに誇りを感じた)。

 中学は田舎で勉強にもうるさくないですから、好きにやっていたらできたのが、明和高校に入ると受験指導が強く、うるさく感じました。受験勉強から解放され、一学期のんびりしていたら、絶えずテストがありまして、すぐ成績が下がったのです(この学校は成績を貼り出す)。

 それで、中学のうちはあっちに居たのに、半年もしないうちにこっち(成績上位から下位)に来たのでショックでした。この時つまずいて、そのまま暗い三年間でした(このような不快情動が持続する青春であった)。

 また高校生ともなりますと、体の発育も伴って、自分はどういう方向に進んだらよいかと悩むのですが、そういう時にただ闇雲に勉強するということは、目標がないわけですから駄目なんです。

 私のような質(たち)は、必要性を感じないまま尻を叩かれても心が動きませんでした。将来はこういう仕事をしたいから、こういう学部を選ぶ。そこで目指す大学が決まってくるから、受験勉強にも身が入る。そういうものだと思うのですが、当時の私が受けた教育は、全くの「詰め込み」で面白味を感じることができませんでした。

 

7「志」を失った戦後の教育

 私は「受験勉強は学問ではない!」と思っていました。「学問は人を創る」ものでなければなりません。

 私の高校当時は、そういう「志」の持ちようではなく、敗戦後の高度経済成長の中期で、いわば経済戦士・工業戦士を作るための教育でした。面倒くさいこと言ってないで良い大学に入って良い会社に行く、それだけだったのです(これが、高校教師はもちろん、身の周りの大人たちの価値観であった)。

 しかし、私には戦士(兵隊)になるという思いがないわけです。「自分はどのような方向に進んだらいいのだろう」と悩んでいるのですが、こういう気持ちには関心を持たれず、成績だけ追っかけられていました。これには意味を感じられず、反発するわけです。学校の外にも、将来を展望する上で相談できる大人が、私にはいなかったのです。

 戦前の旧制高校は、どう生きるかをみんなで侃々諤々語り合っていたと聞きます。青春時代はここが一番大事だと思うのです。

 “人間”を養うという、これが旧制高校だったと思うのです。将来の社会生活に向けて、「精神性」を育むことがこの時代最も大切で、特に男というのは、そういう教育によって男になるのです。思想、理想・志というもの、それがやがて社会をどう進歩させていくかという力になるわけです。

 ここに大いに不満を持ったのです。

 敗戦後、日本人は「志」の教育を失ってしまいました。

 それで、私は唯一農業には興味があったのです。当時、高度経済成長下の1966(昭和41)年卒業で、農学部に敢えて行くというのもあまりなかったのです。

 

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5 身体を通して、その人の「感受性」を観ることで成長してきた
―「感受性を高度ならしむる」野口整体

病気など、体の問題の七十パーセントは心が原因している、というのが心の専門家の説です。西洋医学でも心あるお医者さんはそうだと思っています。「心の世界」は科学では証明出来ないけれど、医療に携わる人、特に看護師の方はそのことに内心気づいている人も多いのです。

 ところが師野口晴哉は、「百パーセントだ。心が関係しないことなどない!」と、言い切っているのです。

 丁寧に普段の生活を観ていくと、心が関係しないような痛みというのはないはずです。苛立ちだったり怒りであったり、そういった類のものが関わっているわけです。

 そして、今現在の心のはたらきというものは過去に起因しているという面が大きく、これが潜在意識ということです。

 三つ子の魂という言葉があります。おおらかに育った人は現実問題に過敏反応しないのですが、そうでない人はつい反応が大きくなってしまう、ということがあります。

 潜在意識のはたらきにより形成された「感受性」というものによって、今の出来事を受け止めている、そしてその結果が体に表れています(背骨に顕れている)。

 野口整体では「感受性を高度ならしむる」ことを目的としています(このため、師は野口整体を体系化したと私は考えている)。

「心って何」と言うと、非常に難しい面がありますが、体が良く変わっていくと「感受性」というものが変わってきます。

 現在の自分の心、感受性が変わることで、過去の事実は変わらないにせよ、過去に対する印象(心の原風景)は変わるのです。

 自分が自分だと思っていることは、そのような自分だと思い込んでいる、そしてこれは、過去の事実に対する自身の印象が続いていることなのですから、現在の「感じ方」、物事への処し方が新しくなることは、「過去も変わる」ことになるのです(今が変われば過去も変わる!)。

師の言葉に「自分が変われば世界が変わる」とあります。

 そして体を通じて心も丈夫になってくると、あまり過敏な反応が起こらない、心に余裕ができるということでしょう(体が変われば心が変わる)。こういう意味で、体を通して心を扱っていくということです。そんなわけで、体を通しての、人との「心のやりとり」を通じて、私の「心のひだ」が発達してきたと思います。

 そして、これはほとんど「直感」を磨いてきたのです。右脳と身体性の訓練ですね。熱海に来てからの三十年間は、これだけずっと一筋でした。

 これにより、本や会報に書くべき内容が、心に、体の中に蓄積されて行ったと思うのです。

巻頭 潜在意識は体にある!― 自分のことから始まった野口整体の道 一

第三章 自分を知ることから始まるユング心理学野口整体 に入る前に、巻頭にある、金井先生の生い立ちについての文章を紹介します。

 整体指導という仕事をする人が、生い立ちに恵まれなかった場合、潜在意識における影響の深さに自覚がある人ほど負い目を感じるものですし、そのことを話すのに抵抗を感じる場合が多いのではないかと思います。先生が自分の生い立ちを雑誌の取材という場で話すのは、『病むことは力』出版を経てのことでしょう。

私は生前、金井先生から、若い時は野口先生のご子息が妬ましかったこと、そして自分に対する愛情も理解も薄かった両親をなじったと聞いたことがありました。

潜在意識教育を学び、自分の感受性の歪みが子どものときにもたらされたことが分かってくると、そういう感情が出て苦しむ時期があります。親を責めてもどうにもならない、親も自分のことで一杯いっぱいだったのだと分かっていても、感情が治まらないのです。

しかし先生は、過去に作られた心の癖(感受性)を発達させ、乗り超えていく過程で、その欠落が、他者の潜在意識につながる通路になることを知ったのです。 第三章の主題はここにあります。

一 私の半生記と師野口晴哉の思い出

3 気持ちが通らないと納得しない子どもでした

 私は五人兄弟の三男に生まれ、一番上の兄がちょうど四歳上、それから一年八ヶ月上に男と女の双子で(その次が私)、下に妹がいて七歳違いです。家は、農業もやりつつ衣料呉服店を経営していました。

 祖母が意地の悪いところがありまして、子どもは一人で出来るわけがないのですが、「また孕んで!」という言葉を母に投げつけ、実は、私は生まれてこない方が良いと思われていたのです。

 母親から聞かされたのですが、こんなことがあったようです。人工流産をさせるべく病院に行くため、家でお風呂に入っていたそうです。家(うち)は昔ながらの五右衛門風呂で、祖父がよく風呂を焚いていました。

 風呂場の窓をちょっと開けると、焚いている祖父と話が出来るというところで、母親が「どうしても病院に行きたくない」と、祖父に言ったようです。「じゃあ、そうしなさい」と。祖父は背筋の通った体格の良い、優しい人でした。

 祖母は、背中がとても丸く意地悪さを感じさせるところがありましたし、母親は母親で、言葉をまともに感情的に受け取ってしまうところがあって、胎教の影響か、小学生時分から私は祖母に反抗していました。胎児は、お腹の中で全て聴いているのです。

 それもこの道に入って勉強する中で、「ああ、そういうことだったのか」と分かるのですが、「潜在意識」です。祖母に反抗していたのはそんなことからだったと気づいた時がありました。

 母親は、どこからか頂き物をすると、箱を揺すって「この中はモナカだな」、「どこどこに義理立てしなきゃいけないから」と言う。そういう時に「こういう心がこもらないものを持って行くのはおかしい!」と、子どもながらに母親に言うのです。こんなところが私らしさというのでしょうか。母親から見ると「扱いにくいガキだなあ」というところが、兄弟の中で変わっていたのです。

 こういうこともありました。私が小学生の頃は、高度経済成長(1954(昭29)年~1973(昭48)年)による影響で、「メリヤス景気」という言葉があったほどで、衣料品が飛ぶように売れたのです。実家の衣料呉服店は、繁華街でもなんでもないのですが、皆さん歩いて来たり、自転車で買いに来たりして、朝、父親が名古屋の問屋に仕入れに出かけ、昼ごろ戻ってきますと、それが夕方までには売れてしまったそうです。

 母は、私が小学校高学年の頃(1960年頃)は、一年間に百万円貯金ができたと言っていました。

 これはずっと後になって聞いた話ですが、「当時そんな金があって、なんで子どもにあんな生活させていたのか」と思ったことがあります。

 家はそういうわけで忙しかったものですから、私は「家庭の団欒がない」と、他の兄弟に言っていました。兄弟五人いる中で、私だけが「この家には団欒がない」と言うわけです。二番目の兄は、「そんなことはどうでもいい」と、関心がありませんでした。実家の跡を継いだのはこの兄ですが、商売人向きでした(後に、不動産屋に転職)。

 商売屋ですから、例えば、食事中でもお客さんが来ると母親が立って行くわけです。その様子を見て、「僕は大人になったら、食事は落ち着いた中で食べるぞ」と思いました。今、現実にその通りになっています。

 落ち着いて、物事をきちんとしたいというか、ごたごたしたままが嫌でした。ごたごたしたままの心は駄目だという感性です。そういう、「気」に敏感な感性があったということでしょう。

 野口整体の「体癖」では、「九種」体癖が私の質(たち)です。緻密で愛憎に敏感な九種は、「家庭内でも理解されない」と、師野口晴哉が体癖の講義で語っていたのを思い出します。

 師もそうだったのです。

第二章 三 日本人にとっての宗教とは =〔身体〕―「整体を保つ」は「身をたもつ」5

野口整体は現代における「道」― 整体を保ち、自然健康を保持して全生する

  ここまで述べてきたように、本章で取り上げた『養生訓』の内容を通じて、明治になっての近代西洋医学が国家医学とされる以前、日本人はどのような心に生きることで「全生(生を全う)」しようとしたのか、をよく知ることができます。

 野口整体における師野口晴哉の教えは、貝原益軒の『養生訓』そのものではありませんが、「身をたもつ」の言葉にある心は、「自分の健康は自分で保つ」(=整体となって(身と心を調えて)、これを保つ)ことで全生する、という野口法の理念とも言えるものです。

 このような伝統を汲む野口整体は、身心一如、知行合一といった現代における「道」というべきものです。

 当会・自然健康保持会の「自然」とは、本来は「じねん」というもので、じねんの意味における自然とは「そのものに本来備わっている性質(本性・仏性)や物事が本来あるとおりであるさま」を意味する、という解釈に立脚しています。

 この「じねん」を保持するために、身体の訓練や精神の鍛練が肝要で、師は次のように述べています(『偶感集』全生社)。 

「それ以前」

自然は美であり、快であり、それが善なのである。

真はそこにある。

しかし投げ遣りにして抛っておくことは自然ではない。

自然は整然として動いている。それがそのまま

現われるように生き、動くことが自然なのである。

 

 そして「天心・全生」という死生観に立脚した野口整体は、生き方を教えるという「養生・宗教」なのです。

  自発的・意欲的な心で生きれば、人は自ずと健康なのです。

 師野口晴哉、昭和元年に始まる生涯を通じての活動、その中でも、とりわけ整体の思想は、近代科学の影響による医学の「心身二元論・機械論的生命観」に対する抵抗運動(レジスタンス)であったと、ここ数年の研究を通じて断言することができます。

第二章 三 日本人にとっての宗教とは =〔身体〕 ―「整体を保つ」は「身をたもつ」2

「心に主たるものあるべし」という言葉は、岩波書店版の『養生訓・和俗童子訓』の見出しに使われていた言葉です。

 三1に引用した「技術を使う心」(月刊全生)の中で、野口晴哉先生は心と体を使う主体としての自分について次のように述べています。 

…自分の体すら自分で思うようにならなくて健康を求めようとすることは違っていると思う。

やはり自分の体や心の持主であるという自分を自覚させ、そういう立場で心身を使い統制していくことが大切だと思う。だから自分と体を混同して、体が患ったら自分が患ったように思い込んで慌てふためくことは可笑しなことです。これが自動車なら、調子がわるくなっても、どこか油がつまったに相違ないといって掃除します。油が足りないんだといって油をさします。自動車と一緒になって泣き悲しむということはしません。

ところが自分の体になると、もっと身近なせいか切実感がありまして、自分が病人になったような気になってしまう。そういうつもりの人を病人でない立場にもう一回置いて心身を使っていく自分というものをハッキリ見させて、その角度から自分の心身の管理を行なわせるようにするということが、我々の第一にやることだと思う。

 「体や心の持主であるという自分」とは何か。それは普通に言う意志や思考だけではありません。これがここからのテーマです。

〈心につねに主(あるじ)たるものあるべし〉― 生命のはたらきを損なう心のあり方を戒める

立川昭二氏は「身をたもつ」という益軒の教えを、次のように述べています(『養生訓に学ぶ』第一部『養生訓』の思想 1 いのちへの畏敬)。 

 「人身は至りて貴とくおもくして」

…江戸時代には今日の「健康」ということばはなかった。それにあたるのが「身をたもつ」ということばであった。益軒は言う。人はなによりも「養生」をまなんで健康を保つことである。これが「人生第一の大事」である。

…そして、この「人身」つまりからだは天地父母につながるものであるから、「道にそむきて短くすべからず」と益軒はつづける。

こうしたいのちとからだの尊厳への意識から、「身をたもち生を養う」養生ということが、人間にとってもっとも重要な倫理となる。益軒のいう養生はしたがって、たんなる健康法ではなかった、人の生き方の問題だったのである。

  かつて日本には、江戸庶民における「身をたもつ」(養生)、武士階級では「型」(修養)、また禅宗における、栄西の「心身一如」・道元の「身心学道(註)」(修行)など、主体的な「身体性」を育む文化がありました。「教育」も「医療」も、生き方の問題として総合的に捉えられていたのです。

(註)身心学道 心を整えるのに身を先立てるの意。

 急増する抑うつ症などの精神疾患も、生化学(生命現象を化学的に研究する)的に捉えられ、投薬が主たる治療法になり、心は脳の神経活動や神経伝達物質による現象と理解されていますが、「気」で身体を観ると「うつ」である状態(抑うつ症)を観察することができます。

 その時〔身体〕(註)としては、心の動きが止まっていて、頭の中で何かを考えているのですが、それが自覚できていないのです。それは実は、滞った感情によって葛藤している(抑圧した感情エネルギーが意識を動かしている(=雑念的思考))のですが、それを、きちんと自覚することができない状態なのです。

 ある程度自覚できていても、このようなエネルギーによって「自我の主体性」が奪われているのです(これが「コンプレックス」第四章で詳述)。

貝原益軒は『養生訓』(『養生訓・和俗童子訓』岩波書店)の中で、

巻第一 総論上(40頁)

養生に志あらん人は、心につねに主あるべし。主あれば、思慮して是非をわきまへ、忿(註)をおさえ、慾をふさぎ(註)て、あやまりすくなし。心に主なければ、思慮なくして忿と慾をこらえず、ほしゐままにして、あやまり多し。

 (註)忿(いかり) 仏教が教える煩悩のひとつ。 瞋(しん)(自分に背くこと

があれば必ず怒るような心・種)に付随して起こる。自分の気に入らぬことに激怒して、激しい感情になる心をさす。この心は粗暴な言動(行動)を生み出す。

慾をふさぐ ほしがる気持ちを制御する。

 と、「心に主を持つ」ことを勧めています。

「養生を志す人は常に主体性を持ち事に当たることが大切であり、主体性を持つことは思慮分別による判断をすることができる」と言うのです。

 では「心に主がない」、とはどういうことかというと、これは自分の欲望や感情に自身が引きずられているということです(欲望と感情の二つを、益軒は「内慾」と呼ぶ)。

 先に述べた「うつである状態」とは、このことです。

 この状態は、自覚が多少ある場合もありますが、心の動き(感情)に自身が飲み込まれ、真の主体性を発揮することができないのです(「茫然自失」という時は、完全に「心に主を失っている」状態)。

 抑うつ症が増加している現代の人々にとってこそ、益軒の「心につねに主あるべし」の教えは肝要なものです。

(註)〔身体〕「身心」また身(み)のことで、心の動きや無意識のはたらきを観察する対象。金井先生の造語。

 

 

第二章 三 日本人にとっての宗教とは =〔身体〕―「整体を保つ」は「身をたもつ」4

健康に生きる心を育てる「養生」としての野口整体

  師野口晴哉は伝統的な「養生」の考え方について、「潜在意識教育法講座(1975年1月)」で次のように述べています(『月刊全生』)。

 健康に生きる心(六十四)

…人間のお腹の中にいる大腸菌は栄養を分解して人体のために役立っているのに、それが体が弱ると、大腸カタルとか関節炎とかの原因になる。相手(細菌)が悪いのではなく、自分の体力が弱ったことがいけないのです。自分が弱ったからそう(病気に)なったのだから、相手を殺さなくてはという前に、自分を省みる。自分を充実することを考えればいい。

(養生をしていた)昔はそうだったのです。体が弱ると、体力を揺す振った。…昔の人が考えていたように素質として見、素質を丈夫にするように養性(養生)することの方が大切であり、自分の眠っている力を喚び起こすことの方が本当の衛生であったのかも知れない。だから自分の力を揺す振り起して健康に生きることを心掛けたのです。

 

 明治末に生まれ大正時代に育ち、昭和の初めから活動が活発であった師は、「衛生」の言葉をも用いて、養生をこのように語っています(明治から大正、昭和にかけて(敗戦後も含め)、健康論が養生から衛生へ移って行った)。

 師は整体指導の目的について、

「異常があれば手を当てるだけで治るような体にするにはどうしたらいゝかというと、体が鈍った状態のまゝではまずい。又体が鈍ってなくとも、心がよそ見をした(何かの思い(主に陰性感情)に捉われている)まゝではやはり体が鈍ったのと同じ状態になる。だから潜在意識の方向を正し、いろんな生活のために生じた体の歪みを正し、それによっていつも敏感な状態を保つ」

ことと述べています。

 そして、整体指導と「心や体をつかう筋道」について、次のように述べています(『月刊全生』技術を使う心)。 

技術を使う心

…私達は、相手がイタイイタイと騒いでも、それを体の病気とみる前に、その以前の心の動きをつかまえようとします。体を押えたゞけでも治るけれども、それは一時のことである。それ以前にある要素、つまり病人になりたい心の角度を変えて、体の本来の力を発揮して経過出来るように仕向ける。そういう奥にある心を見逃して、イタイということだけしか、こゝを怪我したということだけしか見えなかったとしたら、それは間違いだと思う。

…私達は、行動以前にある心、行動以前にあるエネルギー(気の動き)を修正することが目的でありますから、相手のアイタヽヽというようなゼスチャーや訴えにひきずられるとしたら、病人に瞞着される(まんちゃく・だまされる)行為だといえます。で、それを受け入れることによって病人が治るかというと、病人的要求はいよいよ強まるだけであります。

…それには体をつかう筋道や、心をつかう筋道を明らかにし、人間がその持っている体や心を自由につかえる方法を知らなくてはならない。

 人間の心というものは可笑しなもので、自分の心というものは自由に出来ない。こんなところで怒っては損だと思っていても怒ってしまう。泣くまいと思っていると涙が出てくる。自分の体だって自由に出来ない。

…人間の心や体は自由に出来ないということのうしろには、自由にする方法を知らないということがあります。「胃袋よ働け」といったって、胃袋は働かない。だけども愉快だったらお腹が空いてくる。自分の好きな人のにぎってくれたにぎり飯なら美味い。御飯の中に蠅が一匹入っていたって食欲がなくなる。食欲がなくなるということは、胃袋の働きを抑えたことになる。

 だから意志では自由にできないが、空想とか感情(陽性感情)とかいうものを使えば自由に働かせることができる。とすると、自由に動かせるはずの心や体を、今迄は意識というものにだけ、あるいは意志とか努力とかいうものだけ求めていたから、自由にできなかったのだということができる。だから方法さえ得れば、体も心も自由になるはずである。つまり方法を知らなかった為に、無知であった為に、自分の心や体をマスター出来なかっただけで、自由に出来ないと思い込んでいること自体が違う。

 こういう心や体をつかう筋道を知らせるつもりで、私は整体指導ということを掲げてやっているのであります。