野口整体 金井蒼天(省蒼)先生の潜在意識教育と思想

野口整体金井流 蒼龍 整体の道51年で亡くなった金井先生の説く野口整体とは

対象から何を受け取るか―風邪の効用10

生命を見る眼

  野口晴哉先生は、物理学者であるニュートンの見方と、生命を見る整体の観方を対比し次のように述べています。(『治療の書』全生社 原文旧仮名遣い、改行あり)

治療ということ

生きているものと生きていないものは矢張り違う也。ニュートンは林檎の落つるを見て落下する林檎に内在する何らかの力の変化と見ず、他の或るものの林檎へのはたらきかけの結果として見たるも、それは彼が物理学者なるが故也。物理学者は林檎の外側から、はたらきかける力からのみ見れど、林檎自身の動き、即ち熟すという内部の生理的事情によりて、同じ力が同じに働きかけても落つる時と落ちざる時あり。

しかも落ちざりし林檎も時至らば落つるが生きた物の常也。成長し繁殖するは生物の特色也。数学者は量の変るであろうことを想像せず、空間に於ける与へられたる一点は他の一点に関して突然その方向を変へるが如きこと思いもよらず、化学者は一の体に於ける化学的変化を変化せる体外の或るものの作用の結果としてのみ見倣して、一度形成せられし化合物は周囲の要約に変更が生ぜぬ限り永久に存続する筈といえるも、生きたものにありては絶えること無き突発的変化が常態也。

生きたものは慣力も持たず、また物理的平衡にも赴かず、今無事であっても蜜柑を見て泪を出したり、算盤はじいたりする也。怒つたり喜んだりする也。

それ故生命を見る者にありては林檎の落つるを見れば、林檎に内在する力の変化によりて枝より離るることを知る也。その変化の絶えず行われていることを見る也。

それ故生きているものを数学的、化学的、物理的立場よりのみ見れば殻のみ映る也。生命は見えず、生くるものの生きていること判らぬ也。生きているといふこと矢張り不思議也。この不思議感じて治療ということ為す人、治療ということ会するを得る也。

 金井先生は下巻で、この捉え方の違いについて次のように述べています。 

・・・現象の捉え方には二つがあり、まとめると次のようになります。

1 万有引力があるから落ちる

…外から働きかけている力・物理現象(科学・物理学)

→ 機械論・定量的(数値化可能)

 

2 熟して枝から離れたから落ちる

…内に動く力・生命現象(生命の学)

→目的論・定性的(数値化不能な質的側面に注目)

定量的とは、対象の量的な側面に注目した研究であるのに対し、定性的とは、物事の様子やその変化を、数字では表せない「性質」の部分に着目して研究するものです。

ニュートンが、リンゴの落ちるのを見て「万有引力」を発見したのは天才的な偉業ですが、彼はあくまで物理学者であったということです。

  目的論的生命観というのは「考え方」の問題ではなく、その人のまなざし、感受性、関心の持ち方如何によって、観えてくるものです。

 玄侑宗久氏の『実践!元気禅のすすめ』という本には、15,000個の実をつけた「ハイポニカ・トマト」を育てた野沢重雄氏の話が出てきます。

トマトを育てる上で、野沢氏は水と栄養をふんだんに与えるだけではなく、「一度たりとも、これ以上大きくなっては困るだろうか、といった不安を、トマトに感じさせないことが大事だ」と語ったとのことです。

 私はこれを読んで、トマトに対する潜在意識教育のようだと思いました。育ってくる過程で成長を阻害するような不安や不満に基づく潜在意識がある人は多くいます。

また、そうでなくとも日常的に不快情動が潜在化すると、思うこと、感じることが悪い方、暗い方へと向くもので、それが実際に自分を限界づけてしまうのです。

禅というのは、感情も想念もない無心の身体になることで、自由な自分を見つけることを目的としています。整体も、感受性を高度ならしむることで、生きる領域を広げていくことが目的です。

こうした行を通じて、次第にひらけてくるのが目的論的世界観というものなのだと思います。

 

生命を見る目と目的論的生命観 風邪の効用 9

整体の原点

 少し前に野口晴哉先生の「物の学あれど 生命の学無き也」(『碧巌ところどころ』)という遺稿にある言葉を紹介し、金井先生が「物の学は機械論・近代科学、生命の学は目的論・野口整体」として論じようとしたと述べました。

 今回は、「生きているという出発点に立つ」野口整体の思想についてお話しようと思います。

 金井先生は下巻『野口整体と科学的生命観 風邪の効用』で野口先生の引用を用いて次のように述べています(野口晴哉「人間の分類」『月刊全生』)。

動物の運動

 人間に限らず、生きものの特色は、成長し繁殖することであります。運動系のない植物類でも、成長し繁殖しております。

 目に見えない細胞の運動や茎の中を流れる水の動き、そういうものを運動というなら、やはり運動して成長し繁殖しているといえないこともないが、運動系をもっているものの動きとは少し違う。

 生きものの中で、運動系をもっている動物は、成長し繁殖するということを、体を動かすことでやっている。何か食べたくなれば、食べ物を探しに出かける。或いは働いて食べ物を得る。そして疲れたら眠って、運動系を弛める。覚めれば又動く。

 繁殖ということも、体を動かすことで、異性を求めるというように、皆、動くことによって果している。だからそういうこともひっくるめて、動物の生命、或いは動物と運動というものの最初の出発点を求めると、それは「生きている」ということから出発して見なくてはならない。

 しかも、ただ生きているだけでなく、体の裡に要求があって、生きるなり成長するなり、繁殖するなりしている。そういう要求を、先ず体の中で感じて、そして運動というものによって実現していく。動物が生きているということは、そういうことであります。

だから運動の出発点は、裡の要求を実現する、そういう生命の動きと考えるのが本当であります。

(註)運動系 神経系のうち、全身の運動に関わる部分をいう。随意運動を司る錐体路と、その他の錐体外路性運動系に大きく分けられる。

(金井)

 師が「「生きている」ということから出発して見なくてはならない」と述べているのは、死体解剖学を基にした西洋近代医学の見方に対するものであり、「生命とは、要求を体の中で感じて、運動によって実現していく存在である」、ということが出発点となっている師の思想です。

 

 この文章は体癖観察の端緒についての内容ですが、身体に何を観るのかという整体の原点について説かれています。

 これを読むと、合理的で科学的な印象を持たれる方もいるかもしれませんが、こういう観方というのは少なくとも西洋医学にはないものです。同じ人間を見るのでも、見ている相が違うのです。

 金井先生はこのことについて、

 観察により何を受け取るかは、立場や「関心」のあり様によって違いがあり、また、あるはたらきが存在していても、心のスクリーン(感性)が醸成されなければ映らないのです。

と述べています。生きているものを物質として見るということも、そのように見える感性によって見ているわけです。そして整体の観方も、それが観える感性があるからそのように見えるということです。

 この生命を感得する観方を、金井先生は禅的観方とも言いました。頭と目だけではなく、見る側が身心一如、自他一如となって観る時、観えてくる相なのです。

 これは整体の原点であると同時に目的論的な観方の原点ともいえるもので、金井先生は次のように述べています。 

人間をはじめ生き物は、要求を実現するため自発的に行動し、これを果すための体の器官や機能は「合目的性」を具えています。生命は、要求を実現するという合目的性に従って発達を遂げて行く、というのが師の生命観であり、これを表現したのが「全生」思想でした(これは、ユングの「個性化」というものでもある)。 

 今日はここまでにします。

 

修行と目的論的生命観―風邪の効用 8

全生思想という目的論的生命観

 私は以前、NHKの「爆問!」という番組で、粘菌にも「快・不快」があり、粘菌は快の方向に向かって動き、増殖していくが、不快な環境だと動きを止めてしまうという様子を見たことがあります。

 このように、情動の一番原始的なあり方というのは「快・不快」とそれに付随して起こる反射的な体運動であると言えましょう。

 金井先生は下巻で、

 私の個人指導では不快情動により、感情エネルギーが「身心」(意識下)に停滞している状態を観察しますが、情動の滞りを観るのは、滞り(硬張り)が「要求を実現するための運動」を不活発にするからです(意識下に抑圧された陰性感情は、「主体性を損なう」はたらきとなる)。

と述べています。

 粘菌はそのまま止まってしまいますが、人間には与えられた環境を超える力=運動系(錐体路錐体外路)と脳のはたらきがあります。それは情動を自覚し、鎮めることによって発揮され、生きる道を拓いていくのです。

 湯浅泰雄氏は「東洋の修行の目的は情動のコントロールにある」と論じ、金井先生はそれに共鳴していました。

 制御とは抑圧ではなく、身体感覚を通じて情動を自覚し、それによる緊張を弛めることです。こうして心を静め、無心となることによって現在の自分を超える、というところが「養生(身をたもつ)・修養(型)・修行」という日本の身体行には共通しています。

『病むことは力』『「気」の身心一元論』を読んだことのある人はご存知かと思いますが、金井先生自身が「私は母親のお腹にいた時から、人に充分守られて生き、育ってきたという時がありませんでした。」と言う環境に生まれ育ちました。

 乱暴に言ってしまえば、自分ではどうすることもできない時から「不快」のまま放置されてきたということす。これでは脳も運動系も十全に発達することはできませんし、恐怖や怒りが内攻し「あきらめと絶望」という健康に生きる上で最も脅威となる潜在意識が形成されることになります。

 先生は「自分は体が十分ではない」と言うことがありましたが、確かに丈夫な体ではありませんでした(一方、感覚の鋭さにもなっていた)。そういう自身の潜在意識と対峙し、整体を通じてのり超えようとし続けたのが先生の一生であったと思います。金井先生は下巻で次のように述べています。

 

(金井)人間は誰しも潜在的可能性を有しています。そして、常にその可能性を実現しようという運動の途上にあり、変容し、成長し続けようとするのです。元より(ユングの思想を湯浅氏、河合氏を通じて知る以前から)私は、師の全生思想を、「可能性の実現」と捉え、この道を精進してきました。

 師野口晴哉は、「全生」について次のように述べています(意識以前にある自分『月刊全生』)。

意識以前にある自分

・・・人間の理解にはいろいろな方向があるけれど、私たちが、自分の意識以前の力をできるだけ発揮できるような理論、或いは理解の基に行動してゆくことが、全力で生きるという「全生」ということに最もよく通じると私は思っている。

…私はどんな瞬間にも全力を出し切って生きてゆく為に整体の方法を説いています。全力を出し切って生きているものは、いよいよその全力が増えてくる。だから意識以前に持っている自分の力を出来るだけフルに発揮させ、意識して考えている錐体路を、遙かに越えた力を出そうではないかというのが「全生」という意味であり、そういうつもりで機関紙の題にしているのです。

(金井) このように師は、全力を発揮する(全生する)ためには、理論と理解(=思想)が必要だと述べています。

可能な限り自らの生を活かそうとする力がはたらくのと、そうでないのとでは、長い年月の間には格段の差異が生じます。このために、野口整体の全生思想(=気の思想)があり、これは目的論的な思想なのです。

 

 病症の経過は、金井先生が自分に課した、最も中心にある行であり、経過を通じて新しい自分が生まれるのを確かめて来たのです。それは息を引き取る最期の瞬間まで続いたと私は確信するようになりました。

 野口先生が60代半ばで亡くなったことについても、「早い」とかいろんなことを言う人がいます。金井先生が大腸がんで亡くなったことも、いろんな受け取り方をされるかと思いますし、そういうことで説いた内容の価値まで量る人もいると聞いています。

 いろんな判断をされるのは仕方がないのでしょうが、問題は、自分が生きる上で意味のあるものは何かということだと思います。

 野口先生が言った言葉を教条的に「正しい答え」と信じてしがみつくのではなく、思想を理解し体得するという道を身を以って示してくださった金井先生に、私は心から感謝しています。

つづきます。

気は心と体をつなぐもの―風邪の効用 7

身心分離と「気」 

 気・自然健康保持会HPには、野口晴哉先生が「我々の体には、自分の生命を保つ機構が備わっている。自分でその力を発揮して環境に適応し、その変化に対処してゆくようにできている。」と説く、目的論的生命観の端的な内容として「整体指導の目的」(『月刊全生』1969年)が掲載されています(目的論としての野口整体の思想)。

 野口先生はこの「整体指導の目的」の中で「気」について言及し、次のように述べています。

・・・人間の体を研究して行く場合は、観えない、心にあるか体にあるか判らない、今までの学問にもなかった、気というものが重要な役割を果していることに気付かねばならない。

 物と物の並び方は科学で割切れるけれども、そうでないものも世の中にはあるのです。

・・・人間の体の中の出来事にしてもそうで、気の存在は無視できないということを根本において、気の問題を追及してゆきたい。気というものが判らないと、生きている人間の体の働きは判らないからです。 

「気」というのは生命のはたらき、目的論的機能と一つのものなのです。金井先生は先の野口先生の文章に次の注釈をつけています。

野口先生は亡くなる(一九七六年)一年ほど前から、本部の講義ではよく「これからは気の時代に入ります」と言われていました。それから三十年余を経た現在、その「波・うねり」を強く感じることができます。

 また亡くなられる(六月二十二日没)直前、箱根での中等講習会(五月末)では、「これからは気で教えます」と言われました。

「気は心と体をつなぐもの」であり、意識が頭に偏った状態では「気」は理解することができません。それは「身体」により、理解できるのです。

 金井先生は中巻と下巻で、「野口法の概要」という昭和八年の野口先生の文章を引用し、生命が合目的性を発揮する上での妨げとなる「鈍り」と身心分離についてについて述べており、引用文の前に「師がここで言う心とは「気のはたらき」を意味しています。」と言葉を添えています。

 野口整体が霊療術(霊学)に起源を持つことは少し前に述べましたが、この「霊」という言葉は「気」と言い換えることができます。霊学は、当時残っていた日本の「気」についての智(儒・仏・道・神道、武術など広範にわたる)を近代に活かす試みだったのです。

 しかし、『霊療術聖典』に載っているものだけで15団体、他に様々あったようですが、その多くは途絶えています。

 野口整体は「気」とは何かを現代に伝える上で重要な役割がある、と直観した金井先生は、それを継承し「目的論」という思想によって伝えようとしたのです(後に詳述)。では最後に、野口先生の文章を紹介します。

野口法の概要

…麻痺とは刺戟を感ずること鈍く、之に反応する働きが鈍き状態を云うのです。つまり体から心が去った状態です。体から心がいなく(体に気が通わなく)なれば、残るのは体ではなく、物です。物は痛まず、苦しまず、悩まざれど、どしどし冒され腐る。抵抗し、恢復することを知りません。

・・・体の感覚が鈍るということは、人がいのちを保つことを困難ならしむるものです。それ故、私はいのちを物の方面からのみ見ていてはいけない、心の観察を外にして本当のいのちに触るることは出来ないのだ、と強く主張するものです。

 今の医学は、余りにも物質的に過ぎます。いつも心の働かなくなった体のみを対象として進めらるる現代医学の研究方針は、決して医学として感心した態度ではありません。(心身二元・機械論的近代医学の立場のこと)

…人体が物質化する理由は、体から心が離るるためです。又心が一部分に滞って感覚の伝導が公平に行はれぬためです。ですから、全体が一つにならず、ために合目的性が発揮されない状態になってしまうのです。

  しかし、心滞ることなく、体の働き鈍ることなければ、人は如何なる障害刺戟にも反応し、抵抗することが出来るのです。毒を薬に変ぜしむる位、簡単なことです。冷い風とか、病菌とかにそう易々冒さるるものではありません。毒物が何です、病菌が何です、私らは生きてゐるのです。

…今の衛生法は、第一その文字から気に入らない、外を見て裡を見ない。病菌の恐しさを知らしめて、自分の力の強さを悟らしめない。だから、衛生の道を知ると、恐怖が起るのです。

 恐怖して心が縮まるから、体が働かない、体が働かないから、体、物と化して恐る恐る物に冒されてしまうのです。凝るのが悪いのです、心の滞りが麻痺の本体です。

 

 

病症と心の態度―風邪の効用 6

病症を抑えようとする「心の態度」の問題

  下巻『野口整体と科学的生命観 風邪の効用』第一章には、風邪を引いたかと思うとすぐに薬を飲んで症状を抑えて来た女性の例が出てくるのですが、今回はこの人のことを、回想を交えてお話したいと思います。 金井先生は彼女について次のように述べています。

私の指導経験では、・・・膠原病(自己免疫疾患)と診断されている人が、「私の白血球は本来のものとは全く違う形となっており、体の組織を攻撃する」と、そして「長年、風邪を引く度に、薬で症状を抑え出勤することを繰り返した」と話していました。

この話を聞いた私は、症状を取り除くことに「執心」した(=この人の心が症状を敵視し、それを抑えるための薬の服用という行為が免疫の働きを乱し続けた)ことで、体のはたらきが大きく異常を起こしたものと思いました。

「生きていること」、そして生命を理解することの意味の重要性を痛感したものです。 

 この女性と金井先生が指導の後でお話をする時、私も同席させて頂いたので、この時のことは覚えています。

 彼女は薬の服用について何か反発を感じる出来事があり、その話をしようという状況であったと記憶しています。彼女は席に座るとすぐ、「水を一杯頂けますか」と言い、その場で薬を飲みました。

 指導の後、指導者の前で薬を飲むという行為は、挑戦とも受け取れることです。私は一瞬息をのみましたが、不思議と対立的、挑戦的な感じは受けませんでした。

 どちらかというと「やけ酒」を飲むような感じに見え、彼女がこれまでそうすることしかできなかった苦しみと悲しみの表現のように感じたのです。

 彼女は母を早くに亡くした人で、膠原病だけではなく抑うつ症状にも悩み、ある高名なユング精神科医の分析も受けたことがありました。

 しかしその人の情に訴えるような「同情的姿勢」に引いてしまったとのことで、金井先生は私を「理解しよう」としている所が信頼できると言いました。彼女は非常に理知的な人だったのです。

 彼女は、社会人が症状を理由に仕事に支障をきたすなど許されないことだと思い、体をそれに従わせようとしてきたのだと思います。母を早くに亡くした彼女は、症状だけでなく自分の感情も抑え、排除することで「強く賢い自分」を保ってきたのです。そして、その生き方が破綻しつつある、というのが膠原病の意味するところでした。

 自己免疫疾患の背景は個人によってさまざまですが、心と無関係の病症はないというのが整体指導の立処であり、こういう場合「薬を飲むのは良くない」「体が鈍い、硬い」などと言いさえすれば通る訳ではありません。

 しかし、もし彼女が膠原病になる前に、症状を抑え続けることの意味を知識としてでも知っていたら、と思うのです。

 以前紹介した「私の体は、私の頭よりも賢い」のNさんは、身心共に乱れ、娘に感情をぶつけてしまうようになっていた時期、三才の長女が保育園で心因性のじんましんを発症したことがありました。

 園の指導で病院に行き、薬を服用しステロイド剤を塗ったところ、たちまち蕁麻疹は消えましたが、不自然さを感じたNさんは二日で薬をやめました。

 すると蕁麻疹が再発しさらに広がり、一週間引きませんでした。Nさんは自分が小さな娘に与えた影響を反省し、かゆみでぐずる娘に添い寝をして病症を経過しました。その間、長女はおっぱいをほしがるなど甘え方が赤ちゃんのようになったとのことです。

 この出来事について、金井先生は上巻『野口整体と科学 活元運動』で次のように述べています。

このような長女の「心理的要求」に、この時期応えていくのか、またはステロイドを塗って見た目だけ「問題がない」状態で過ごすのかは、その人(親)の感性で判断することです。

身体感覚が敏感になると無意識がはたらき、部分に捉われず生命の法則に順(したが)うことができるのです(表面的な症状に捉われず「全体性」を大事にする)。

  そして最後に、野口晴哉先生の『風邪の効用』の引用文、そして金井先生の文章で、終わろうと思います(下巻にも引用されている)。「風邪の効用」はまだ続きます! 

治ると治すの違い

 最近の病気に対する考え方は、病気の恐いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きていく上での体全体の動き、或は体の自然というものを無視している。仕事のために早く治す、何々をするために急いで下痢を止めるというようなことばかりやっているので、体の自然のバランスというものがだんだん失われ、風邪をスムーズに経過し難い人が多くなってきました。

・・・早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい。できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。不意に偶然に重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。体を丁寧に見ていると、風邪は決して恐くないのです。

 (金井)

機械論である西洋医学は、病理学的理解による病症(病気)を対象にするのに対して、野口整体では、このように「身体性(敏感な体の状態)」を対象とし、体の弾力を問題にしているのです。病気が経過しない、また不意に重い病気に罹るのは、身体の弾力を欠いた(身体感覚が鈍い)「合目的性」が発揮されない体においてなのです。

 

 

機械論と目的論―風邪の効用 5

物の学と生命の学

野口整体と科学的生命観 風邪の効用』で金井先生が著そうとしたことは、先生が野口整体の最も革新的な思想と捉えていた「病症を経過する」という思想、その目的と意味についてです。

 そこで持ち出されたのが「目的論」というものですが、金井先生はある塾生に目的論とは何かを質問された時、思想ではなく「態度」なのだと答えました。自分の物の見方、また生きる上での態度(心の構え)が機械論的なのか、目的論的なのか、という問題なのです。

 野口晴哉先生は、有名な「遺稿」で、

物の学あれど 生命の学無き也 

生のこと説きても 物の学につかえて判らぬ也 

これを超えて判る人あれば 我は又説く也

と、述べています(『碧巌ところどころ』)。

 金井先生はこの「物の学」というのが機械論、近代科学。そして「生命の学」というのが目的論、野口整体として論じようと挑みました。金井先生は下巻で次のように述べています。

(金井) 

 近代科学的な自然全般の見方を「機械論」、また「因果論」と言います。西洋において近代以後、このような見方が生物・人間にまで適用されたのです。これに対し、近代科学発達以前に在った生命に対する観方は、古代ギリシア以来の「目的論」でした(風邪の効用1参照)。

現代では、少々のことでも「何かしないと治らない」、「治って来ない」と思い込むようになりましたが、これは科学の影響で、機械論的生命観による考え方です。機械は待っていても治らないからです。

一方、野口整体が基盤とする「自然治癒力」という言葉の背景には、意識されない目的論的生命観がありました。

これが全生思想です。

自然治癒力」という生命のはたらきに対する「信頼」を確かにするか否かは、現代では、目的論的生命観を理解できるかどうか、にかかっているものと思います。

・・・師野口晴哉は、「健康は自然のもの」(『月刊全生』)で、健康観の問題について次のように述べています(改行あり)。 

健康観の問題

…ガスを吸って吐き気がし、悪いものを食べて吐き気がし、大便を溜めて下痢したところで、健康に生きている故の動きなのです。

そういう自分の実際の体の動きを見ながら、いかにして健康を保つべきかなどと考える人は、健康というのが観念にあるのです。「完全なる体」が頭にある。

健康というのは全く病気にならない体だと思い込んでいる。しかし人間の体は新陳代謝をしながら絶えず動いている、変化している。だから完璧な健康というものはないのです。

健康になれば、次にはすぐに毀れてゆく。毀れれば、またすぐ治ってゆく。極端に言えば、十日生きたということは十日死んできたのです。今生きているということは、今死んでいるのです。少なくとも、老いつつ、年を取りつつあるのです。だからどんなにバランスを整えて完璧を期しても、年を取ってくるのです。

・・・絶え間なく毀され、毀れているという中で健康であり、絶え間なく立ち直っているという中で病気であり、そういう動きの流れを保つ力、新陳代謝をしつつ絶えず健康な方向に動いていく力、毀れて死ぬ方に行っている中にも、自分を生かしてゆく力、そういう見えない、訳の判らないものが健康の本体である

その体の状況を見ないで、健康という、或る固定した形があるつもりで、血圧がどれくらい、胃酸の量がどれくらいと決めている。しかし毀れた中にも治る働きがあり、治る働きの中にも毀す働きがある。そういう中で健康を得ているのです。

そういうことさえ判れば、病気(症状がある)だから病気だ、健康(数値が規定内)だから健康だというように思い込む人は、生きているということを考えていないということになる。

ただ漫画に描かれるような「健康」とか「病気」とかいう図式を鵜呑みにしている。そんなものはあり得ない。あるとしたら、その人達の頭の中に観念としてあるだけで、その観念としての健康を求めようとして、「ああだ、こうだ」と言うのもおかしい。 

(金井)

人間の体は、疾病と治癒をくり返しているのです。この破壊と建設は、ともに人が生きる上での合目的的なはたらきというものです。

 こうして、自分を生かしていく力に支えられているにも関わらず、「その体の状況を見ないで、健康という、或る固定した形があるつもりで、血圧がどれくらい、胃酸の量がどれくらいと決めている。」ことが、明治以来の西洋医療によって教育された、現代人の無意識的な機械論的生命観なのです。

 そして、この「動きの流れをたもつ力、新陳代謝をしつつ絶えず健康な方向に動いていく力、毀れて死ぬ方にいっている中にも、自分を生かしていく力、そういう見えない、訳の判らないもの」についての智が「目的論」という思想に立脚する智なのだと私は考えています。

(補)野口整体の行法の基にある「生命に対する信頼」を育む思想

 下巻『野口整体と科学的生命観 風邪の効用』で、金井先生は野口先生の文章を引用し、行法の基にある思想に野口整体たるゆえんがあることについて述べています。

 活元運動をはじめとする整体の行法を実践する上で大切な内容ですので、ここに紹介します。

自然治癒力とは病症を経過する力

 野口整体の行法である「愉気法・活元運動」は、昔から行われてきたものでもあります。愉気法は「手当て」ですし、活元運動は「霊動法」でした。そして活元運動に類似するものは世界中にあり、よく知られたところでは中国気功法の「自発動功(註)」です。

 しかし、これらの行法を行う上での考え方・思想には、革命的と言える「生命哲学」が存在しているのです。

 これらは「病気治し」のために行うのではなく、病症を経過させる「生命の力」を活性化させるために行うのであり、治るのは生命力が発揮された結果なのである、という「生命に対する信頼を育む」思想に裏付けされているのです。

このような思想の流布が師の最も望むところでした。

 師は自分が生きているという「生命に対する信頼」の問題について、次のように述べています(『月刊全生』)。

 

整体の立処

 我々がやっているのは、病気を治すことでもなければ、新しい健康法や養生訓を主張して、余分に人間の頭を忙しくすることでもないのです。ただ、自分の健康を保つ力を人間は裡に持っているのだということを教えているだけなのです。そして、その裡の力を自覚し、それによって自分の健康を自分で保っていく心構えを持つ人が増えていくことを望んでいるのです。

 しかし病院では、体の要求を無視して、眠れなくなったのを睡眠薬で寝かせ、食欲がなくなったのを無理に食べさせたり、食べなければ栄養剤で補給したり、せっかく熱が出てきたのに、熱を下げるような方法を講じたりする。

 それなら、首を切れば熱などすぐ下がるのです。生きているから熱が出ているのですからね。その熱を下げるというのは、体を壊す行為です。体に無理な熱など出るわけがないのです。体に無理がかからないようにするために体がわざわざ熱を出してくれているのです。

 それでは危険なこともあろうと言う人もいます。しかしそれはその人が自分の生きているということをどう信ずるか、その生命に対する信頼の問題なのです。

 いろいろな工夫をして治したり、丈夫になるために外の力に頼って鎧を多くするほど、生命に対する信頼感が薄くなるのです。いろいろな手段を使って病気を治すほどに、健康に生きるということについての自信がなくなるのです。

 私は今年で五十年こういうことをやっておりますが、だんだん自分の生きていることに信念を持ち、だんだん自分及び自分の家族の生きていること、或は自分の会員の人たちの生きていることに確信を持ち、何にもしないで丈夫になっていく方向に進んできております。

(註)自発動功 活元運動のように、変性意識状態で自律的な身体運動を誘発する気功。