野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

整体の道51年で亡くなった整体指導者の説く「野口整体」とは

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 一3

 昨年、初めて緊急事態宣言が出た当時、私はNHKの新型コロナウイルスについての特番を見ました。その中で、司会のアナウンサーがパンデミックの渦中で起こる、不安や恐怖などの感情をどうしたらいいのか?と、緊急時下の社会を研究する学者に質問するシーンがありました。

 アナウンサーは「他者がパニックになっている時、どう治めたらいいのか?」ではなく、「自分の感情をどうしたらいいのか」をまじめに質問していたのです。

 私はそれを見て、「自分の感情を自分で鎮められないことが、ここまで一般化しているのか」と改めて驚いてしまいました。(「質問する相手がちょっと違うだろう?」という気もしますが。)

 しかし、わが身を振り返ってみると、私も整体を学ばなければ、理性的に自分に言い聞かせたり、何かで気晴らしするという程度で「感情」を何とかしようとしたでしょうし、心を体の中心に据えることなど思い至らなかったでしょう。

 皆さんはどうでしょうか?それでは今回の内容に入ります。

 3 科学は身体性から離れる― 身体に「私」というものがない現代

  この女性は、大学を優秀な成績で卒業し、なお科学の王様と言われる物理学、それも天文物理学という近代科学の基礎となる学問を得意とした人です(天文物理学者のガリレイは科学的手法の開拓者の一人)。

 このこと自体は良いことであれ、他の人間教育というものの教養や「身体性」というものが大きく不足しているのです。

 勉強が良く出来た人には「私が頭にある」傾向が強いのですが、学校で勉強を良くした、しないに関わらず、現代では「私」は身体の中心には無く、「私」は頭となり、さらには「私」がどこにあるのか分からなくなっています。

 近年では、自分のことを客観視するだけで、「自分と対話することが出来ない」、主体的に「自分の問題に取り組むことが出来ない」という人がさらに増えています。

 これは意識が、身体から離れた「理性」に偏って発達することによる問題なのです(「理性」だけが私となり、感覚・感情は無意識化し、体は「私」ではなくなった=感情と身体の関係、とりわけ不快情動に対する抵抗力が皆無)。

『病むことは力』終章で「日本の身体文化を取り戻す」としたことは、今では「近代科学」に対して、「東洋宗教」文化を取り戻すことという意味である、と断言できます。かつての「肚」を具えた日本人には、このような問題がなかったからです。

「近代自我」が発達した欧米人は、私とは理性であって、私は「頭にある」ものとはっきりしている(=心身二元論)のですが、明治維新以来の百五十年の間、西洋近代文明の影響を強く受け、敗戦後は、さらに「腰・肚」文化(「道」)を喪失した現代の日本人においては、「私はどこかにある」となったようです。

「型」という文化を失い「腰・肚」が作られていない現代人は、身体に「私」というものがないのです(伝統文化は身心一元論であり、身体の中心は腰・丹田にありました)。

 もちろんその他、人間関係の中で個人の健康状態も左右されるものですから、この女性が、先に書いたことのみが原因で難病になったとは言えないのですが、「自身の全体性=身心の統合」、身心統一についての教養を持ち、修養すること(調身・調息・調心)が、この人にとって是非にも必要だと感じた次第です。

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 一2

 今回は、個人指導での出来事が文中に出てきますが、ここで言う「ある難病」というのは、厚生労働省が難病指定をしている自己免疫疾患という意味で、すぐにも命に関わる病状という意味ではありません。

 以前、「自分探し」という言葉が流行した時がありましたが、この中では「身体探し」という言葉が出てきます。これは「自分探し」がさらに深刻になった事態と言えるでしょう。現代の心と体の問題を象徴する例だと思います。それでは今回の内容に入ります。

 2 科学(二元論の文化)によって、自分と、自分の体が分かれている

十年以上前、ある難病を患った四十代前半の女性の例です。

この女性は半年程の間、個人指導に数回通ったのですが、その後一年余りの間途切れていました。改めて、個人指導を始めたいということで、この時(2011年7月)次のように話をしたのです。

 あなたとは、改めて「取り組み直し」をしたいと思います。

 あなたは今回、指導申込書の「目的と希望」欄に「『身体探し』をさせて下さい」と書いていますが、「身体探し」とは如何なることですか? 

 と尋ねますと、この人は「『自分の体』が良く分からない、ので…。」と答えていました。このように表現する中にあるニュアンスと、「身体探し」と書いたこと、そして以前に来ていた時の観察を通じ、この人自身と体が分離していることを強く感じて来た私は、今回再度の取り組みの始めという大事な時だからこそ、次のように話したのです。

  先ずね、今の表現で、私がはっきり分かることは、結構二元論になっているんですね。わかりますか?二元論!

 あなたは「自分の体」と言いました。今の表現のニュアンスは「自分と、自分の体が分かれている」という感じです。自分があって、自分の体があって、「体が私の言うことを聞かない」と言っているのです。あなたは二元状態になっているのです。

 体が、実は自分なんですね。しかし、あなたは「頭に自分が在って、体が私の言うことを聞かない」と言っているのです。これを心身二元論(心身分離)と言います。

 二元論になったのは、特に戦後の文化なんです。戦後の教育によって日本人が二元的になってしまった。無意識的に「私は頭」だと思っているから、「私の体が私に対して、私の思うようにならない」と。「私」というものと、「体」が分離し、対立しているのです(分離は対立を招く)。

 これを心身二元状態と言って、哲学的な表現で二元論というのです。無意識にデカルト主義者なんですね。

 実は、あなただけの問題じゃなくて、現代は多くの人にあることです。これで西洋医学(科学)は成立しているんです。

 このように話しますと、この人は「すごく良く分かります。今までそういう風に考えたことがなくて、これまでは自分が分からない、特に自分の体が分からないと思っていました。」と答えていました。

 この「自分が分からない、とくに自分の体が分からない」ということは、実は広く「感情」の問題があります。それは、感情の未発達と感情を体で感じるために大切な「身体感覚」が未熟という原因があるのです。

私は、この文章の始めに「取り組み」という言葉を用いていますが、野口整体の個人指導においては、「人が人に取り組む」ということなのです。

 指導者である私が、他者に取り組むのですが、ここには、相手が「自分の心に向き合い、自分の身体丸ごとに取り組む」という姿勢が、また必要なのです。

 私の体を観てくれるのが整体の先生で、「先生にお任せ」というのでは、西洋医療のスタイル(客観的身体観を育てるお任せ医療)と同じです。

野口整体と科学 第一部 第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 一1②

 今回の内容の最期にある、櫻木健古(たけふる)氏の『太ッ腹をつくる本』は、私が入門する以前に会報で内容を紹介したことのある本です。

「太ッ腹」と言うと、何事にも動じないとか、そういう「強さ」「豪快さ」という、ややマッチョというか、武道的なイメージをもつ人も多いかもしれませんが、櫻木氏が説いた「腹」の意味はちょっと違います。

 氏が説いたのは、もともと日本人は今で言う「繊細さん」が多く、神経過敏・情緒不安定になりがちという短所があり、ことに近代以降、この問題が目立つようになってきたが、「繊細さん」の良いところが日本人の長所でもあること、これを活かすには「腹」を鍛錬することが必要であり、それが日本の身体智である…ということでした。

 もともと「繊細さん」であった金井先生は、この点をおおいに気に入り、この視点は本著にも貫かれているのです。それでは今回の内容に入ります。 

1 科学と現代に生きる日本人の問題②

日本では1970年、大阪万国博が開かれ、科学技術の進歩に対するバラ色の夢が謳われたのですが、この年を境に科学の影の面も大きくなってきました。

 化学物質による公害などの環境破壊とともに、教育の荒廃などの現象が目立つようになってきたのです。これは科学的社会の進展による、物質的豊かさの過剰から心の存在が見失われてきたことを示しているようです。

 師の「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」という言葉は、人の心が「意識、つまり頭に偏ってしまった(註)」という内なる「環境破壊」が現実化してきたことを示し、特に、将来を見越して四と五の言葉を遺されたのです。

(註)頭に偏った意識

この場合の意識は、現在意識のこと。潜在意識や無意識と呼ばれる、より深い意識が薄れた=身体性の衰退という問題を意味する。

  現代では、科学文明による世界的な問題として「地球温暖化」、そして、科学によって宗教性が駆逐された(註)ことで、身心の問題に対して「スピリチュアリズム霊性)」が求められるようになりました。

(註)湯浅泰雄氏は『宗教と科学の間』(名著刊行会)で「近代初期の宗教と科学の対決と分離は、人間精神の自己内分裂の歴史であったのである。(三六頁 一章 2)」と、ユングの考えを紹介している。ユングは科学と近代西洋文明が失った、意識と無意識を統合する道筋を、近代以前の西洋の精神文化と東洋の宗教(易経道教・ヨーガ・チベット密教・禅・浄土教など)に求めた。

  科学知と伝統宗教智の統合が世界的に必要とされる時代となったのです。

冒頭の五つの言葉は、戦後日本社会の科学的発展に伴う「人間の心の問題」を象徴するものです。

 私は、師野口晴哉より教えを受けた間(1967年~76年)に、このような言葉を聴くことで、現代の問題を何気なく理解していたのです。そして五氏の著作を通じて、「科学と現代に生きる日本人の問題」を明確に捉えるようになりました。

 五つの言葉は、師野口晴哉が生きた時代を通じての「日本人の心の変化」であり、明治維新以来、百五十年の「日本人の体の変化」なのです。

 この背景には西洋文明「近代科学」がありました。

 櫻木健古氏(1924年生・新聞記者)はその著で、明治十五(1882)年生れの父親の語った言葉を挙げ、明治以来の日本の近代化・西洋化がもたらした日本人の変化について、次のように記しています(『太ッ腹をつくる本』)。 

心の完全に健康な人は10パーセント

数年前、数え年の87で亡くなった私の父は、ボロクソの毒舌でもって天下国家を論ずることを好んだ。

その彼の毒舌のひとつに、「いまの日本人は、総理大臣以下、一億こぞって腹なしだ」というのがあった。

明治15年に生まれ、明治、大正、昭和の三代を生きた彼の観察によると、明治の時代には、器の大きい、太ッ腹の人間が、いろいろな分野にたくさんいたという。大正のころから武士道精神がなくなり、時代がくだるにつれて人間が小粒になってきた。とくに敗戦後、急激に日本人が小さくなった。そのあげくの果てが〝一億こぞって腹なし〟なんだそうである。

「昔はよかった」と言いたがるのは老人の通性だが、しかしこの観察、当たっていないことはあるまいと思う。

 

野口整体と科学 第一部 第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 一1①

 第三章 近代科学(二元論)と東洋宗教(一元論)の身心観の相違 

―「自分の健康は自分で保つ」ために必要な身心一元性(主体性)

 今日から、第三章に入ります。第一部の中心となっている章で、分量も多くなっています(原稿での第三章タイトルは↑)。

 この第三章の冒頭にある野口先生の言葉は、文字として残っている資料からの引用ではなく、金井先生の心の中に遺された野口晴哉の言葉です。

野口先生は晩年、現代人の根本的な問題として「体の鈍り」があると指摘しました。これは刺激に反応する力の低下と身体感覚の問題で、野口先生が病症の意味を理解すること、過剰な医療の問題を説くのは、医療の進歩と言われることの中に、結果的に体を鈍くし、また混乱させてしまうやり方があまりに多いからなのです。

このことが、人間の正常性(正心・正体・正気)に深く関わっている…というのは、野口晴哉の遺した最大のメッセージと言えるかと思います。

そして、この認識を多くの人と共有するためには、私たちが信じてやまない近代科学に疑問の目を向ける必要がある、というのが金井先生の晩年の取り組みでした。

それでは今回の内容に入ります。

一「心身二元論」の近代科学が人間に与えた影響―科学は身体性から離れる

 1 科学と現代に生きる日本人の問題①

一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」

二、「気のしっかりした人がいなくなった」

三、「たましいという言葉が使われなくなった」

四、「このままいくと頭のおかしい人が増える」

五、「いきなり刺す人が出てくる」

 これら五つの言葉は、高度経済成長時代(1954(昭29)年~1973(昭48)年)後半の、師野口晴哉の言葉です(これらの言葉は、当会での、2008年夏からの講習会教材と翌年からの新たな会報(Ⅴ~)作りをする中で、私の潜在意識から呼び起こされたもの)。

 一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」という言葉は、戦後の高度経済成長社会と、これに適応させるための「科学的教育」、特に科学的知識の詰め込み教育の問題を象徴していたと思います(敗戦後の日本は、高度科学的社会実現のため理性至上主義教育となり、理性に偏重した人間を育てた)。

 そして、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」という言葉が、本書執筆の(「科学とは何か」に取り組む)隠れた動機となっていたのです。

 二と三は、日本人の伝統的な「身体性(註)」の喪失と科学的「理性」の発達によっての、精神性や人間力の衰退を示唆していました。

(註)身体性

人間の知覚・認識に対し、儒教や仏教では「正心・正体」によってこそ、つまり「正気」でこそ、初めて物事を正確に知覚し、正しく理解することができると教えていた。敗戦後はこのような東洋宗教文化が衰退し、正気の人が少なくなった。本章三 8参照。

 「気のしっかりした人」とは、「正心・正体」の人のことです。

 四と五は、師が、将来の人々の「心の不安定さ」を見越したものです。没(1976年)後三十年を経る頃、五つ目の言葉が現実となり、頻繁にテレビニュースの冒頭を飾るようになってしまいました。

 現在(2016年)から半世紀前、師は将来の日本人の姿を、このように見通していたのです。

 そして、これらの言葉の背後には「愉気が行われなくなったのです」という、もう一つの師の言葉がありました。

 野口整体の技術としての愉気法は、直接人の体に触れるものですが、この場合の「愉気」とは、「気遣い」や「心の通じ合い」という、他者との「気のつながり」を意味しています。

 連帯感を持てないことで、個人は不安定となるのです(社会が科学的に発展すると「人のつながり」が薄れる。心身二元論=心身分離→「自他分離」に由る影響。東洋宗教文化はつながりを大事にしていた)。

 

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三5

 ユングの東洋への関心は、東洋宗教の前提ともなっている「個人に内在する神性(仏性)を目覚めさせる」という伝統が、なぜ西洋の宗教的伝統では否定されたのか」という問いからだったと言われます。

 西洋にもそうした修行的な教えがなかったわけではなく、キリスト教内部にもその道筋を求めた人はいたのですが、異端とされ、迫害されることが多かったのです。

それでは第二章のしめくくりとなる今回の内容に入ります。 

5「神を知る」西洋と「神になる」東洋

 石川氏は西洋の伝統的な自然観について、次のように述べています(『複雑系思考でよみがえる日本文明』)。

 

外界としての「自然」とあり方としての「じねん」

…このように、東洋では「生き方を学ぶ対象としての自然」という伝統が根づいてきたが、西欧にはこのような伝統はない。

西欧の文化は、キリスト教的な世界観を土台として発達してきたが、キリスト教においては、万物は神の被造物であり、さらに人間だけは神に似せて創られた特別の被造物であり、人間以外の被造物を支配し、管理し、利用する権限を神から与えられているとみなしている。

人間は他の被造物よりも上位の存在とみなされているから、自分よりも下位の被造物としての自然界から生き方を学ぶという発想や、自然と一体となることを生き方の理想とするという考え方は、キリスト教的な世界観からは生まれてこない。

自分よりも下位の被造物としての自然界は神によって書かれた書物であり、その書物を読む能力(理性)を、人間は神から与えられているという信念が、西欧人のキリスト教信仰の中から生まれている。

…西欧人が、自然という書物から読み取ろうとしたのは、数学的な美しさであり、数学的な単純性である。物理学は自然の仕組みを、単純で美しい数学的な法則にまとめあげる作業であるといってもよい。

それは「いかに生きるか」という課題とは別次元の課題である。近代科学においては、自然は仕組みを「知る」ための対象であって、生き方の真理を「学ぶ」対象ではない。近代科学においては、仕組みを「知る」ことと、生き方を「学ぶ」ことは分離している。

世界観の相対性と文化の相対性

…日本の禅の修行の中で用いられる禅問答は自分がこだわっている世界観から脱却するための訓練であるといってもよい。また、神道に見られる文字で書かれた経典がないという伝統は、言語によって規制される世界観へのこだわりを超越しようとする態度の表れとみなすことができる。

自然(しぜん)と自然(じねん)の違いからもわかるように、言語自身が世界観を表現し、言語によって自らの思想が制限されるからである。

文字による経典を持たない神道や禅問答という日本文化の伝統は、言語や世界観の束縛から解放されて、自由闊達に生きる道を追求するという意味では、高度の思想、哲学を内包している。

それは、言語や論理によって体系づけられていないから、言語や論理を重視する西欧的な伝統からみれば、思想や哲学として認められない。

禅問答や徒弟制度という形で伝えられてきた日本文化の伝統は、心と体を分離して、心だけで理解することは不可能で、心と体を一体として体得する以外に道はない。ここで求められているものは、明らかに分析知とは異なっている。

思想・哲学を心の問題と考え、体から分離して理解する伝統に慣れている西欧人が、自分たちに理解できないからと言って日本には思想・哲学がないと判断するのは不適当であるし、西欧人の批判を受け入れて、このような伝統を「遅れている」と、日本人が卑下する必要もない。

日本文明が、生き方として高度の思想・哲学をもっているとしても、それを土台として、西欧文明に批判を加えるのも同様に適当ではない。

西欧で発達した合理思想は、人と自然を分離し、心と体を分離し、感覚と理性を分離し、理性によって理解できる数式という言語で自然を記述するという方法によって、大きな成果を上げてきた。

この事実は、物質世界の仕組みを理解するためには、少なくとも、これまではこのような方法が有効であったということを意味する。

心と体を一体として生き方を追求する日本文化の伝統が、近代科学を創る土壌として不適当であったのは明らかである。なぜならば、文明を支える世界観と、自然に対する態度が本質的に異なっていたからである。

日本文明は連続的世界観を土台とし、西欧文明は非連続的世界観を土台として形成されてきた。世界観が異なるために、文明的な特質は大きく異なっている。この事実を無視して、安易に文明の優劣を論ずべきではない。

いずれの世界観も相対的なものであるから、それを土台として発達した文明も相対的なものであり、それぞれに長所・短所をもっている。二十一世紀の文明を創造するためには、自国の文明を相対的な視点からとらえ、その長所を生かし、短所を補う道を探さなければならない。

  中世までのキリスト教の(修道生活での)身体行は、労働を通してこの世を創造した神を感じることでした。

 後に、信仰としての「神を知る」という知的探究が、近代以後「科学的行為」へとシフトしたのです。

 神から与えられている「その書物を読む能力」とは、デカルトが、人間だけが持つ霊魂として定めた「理性」です(第三章 三 1参照)。

 西洋近代に始まる科学的探究とは、理性によって、神がつくった自然という書物を解読しようとした(=神を知る)ことでした。

 自然を対立したものと見なす西洋の非連続的自然観では、信仰とは「神を知る」ことであり、これが「近代科学」となったのです。

 一方、仏教の中で「悟りを開く」ことを専一とする禅は、「一日坐れば、一日仏に近づく」というもので、生きながらに「成仏」することを目指すものです。自然と融合する東洋の連続的自然観における諸宗教の身体行は、自分の裡にある「神性(仏性)に目覚める(=神になる)」ことです。

 近代科学と東洋宗教という行為は、「神を知る」と「神になる」という相違であり、それは、神が自分の外にあるか、裡にもあるか、という違いなのです。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三4

 近年、これから変化していく時代を生きる力として、非認知能力の重要性が注目されています。

 読み・書き・計算などの数値化しやすい知的能力を認知的能力と言うのですが、「科学的教育」は認知的能力を高めるものです。

一方、非認知能力というのは、簡単に言うと、自ら主体的に物事に取り組む、自分の気持ちをコントロールする、他者とコミュニケーションが取れる、自分に自信を持つ、などの数値化しにくい心の力のことです。

 非認知的能力は認知的能力とは発達過程が異なり、乳児期~思春期の「大人とのかかわり(愛情と信頼)」と「あそび」によって発達することから、幼児教育の重要性も再認識されています。

 AIの発達がこのような変化を促しているのは皮肉なことですが、野口晴哉井深大が説いた「心の教育(潜在意識教育)」の意味が、受け入れられるようになってきたのだと思います。そして伝統的な「道」を基にした教育も、心を育てるためのものでした。

それでは今回の内容に入ります。 

4 野口整体を理解するための背景「道」

 日本は敗戦から立ち直るため工業立国を目指し、科学技術者の育成と科学的思考の普及を教育の主眼としてきました。

 科学というものは、「理性的認識」によって得られた知識の集積の上に成り立っています。それは近代になって西洋で確立した「合理主義(古代ギリシアに始まる)」という、ものの見方が基底となっているのです。

 そして「科学的(客観的)理性」を身につけることを目的とする学校教育によって、戦後世代は、理性による知的認識と判断、閉鎖系思考、非連続的自然観が、気づかぬうちに潜在意識に刷り込まれています。

 さらに科学教育(主に西洋医学)によって、自身の身体を「閉鎖系」であるモノとして捉えるという生命観(=客観的身体観)を無意識的に持っています。これは、「科学というもの」の性質を良く理解すると、現代の若者がこのようであることは無理からぬものがあります。

 伝統的、東洋的自然観、生命観を教育するもの、それは、敗戦以前までの日本で「道」と言われたもので、「身体」の行を通じて「心」を養うものでした。

氏は「道」について、次のように述べています(『複雑系思考でよみがえる日本文明』)。 

外界としての「自然」とあり方としての「じねん」

…西欧においては外的世界としての自然が重視され、客観的存在としての自然の仕組みを知ることに努力がそそがれ、それが近代科学として発達することになった。

中国や日本においては、外的世界としての天地の仕組みを知ることに関心が向けられず、天の心に従い、天地と一体となることに関心が向けられてきた。

いいかえれば、西欧においては、人間と分離された外的世界としての自然(非連続的世界観)が重視され、日本においては天地との関係性(連続的世界観)が重視されてきた。

また、西欧においては客観的対象としての自然の仕組みを知ることに関心がそそがれ、日本においては天の心に従う生活や、天地と一体となる体験的訓練(瞑想)が重視されてきた。

「天の心を知り、これに従う」という考え方は、孔子に始まる儒教老子荘子などの道家(どうか)の思想(註)とよく似ている。

…「天の道」や「天の心」は人間が生き方として学ぶべき大自然の真理であって、自然の仕組みを知るための法則ではない。儒教における政治的支配者は、天の道を知り、天の神の委託を受けて世を治めることを理想としている。天子、天帝という言葉はこのような思想に由来している。

道家の哲学においては、大自然を貫く根元的真理は「道(タオ)」と呼ばれる。「道(タオ)」は大自然ありさまを説明する真理であると同時に、生き方の理想となる真理をも意味する。生き方の真理としての「道(どう)」は、禅の思想とも結びついて、日本で独自の発達をした。「道(どう)」は自然と一体となるところに生き方の理想が求められ、そのような「おのずからなるあり方」が「じねん」と呼ばれた。

 (註)

儒教 孔子(前552年~前479年)の思想。人間の主体性による倫理観を打ち立て、人間の普遍的感情を道徳性の面においてとらえ、これを仁と呼び、仁を根本とする政治・道徳を説く。仁は人と人が親しむという意味で、他者への親愛の情である。

人間を外部的に規制するものとして礼を取り上げ、礼は仁を基とする規範であり、仁は礼を通して実現される。

道家 老子(前6世紀)、荘子(前369年~前286年)の思想(老荘思想)を奉じた学者。宇宙原理としての道(タオ)を求め、無為・自然を説いた。

 

「自然と一体となるところに生き方の理想が求められ」るという「道」が失われた現代では、石川氏が説く「東西の自然観の相違」という理解を持って、野口整体の思想と行法を、東洋宗教として理解する必要があるのです。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三3②

 今回は「意識」のあり方がテーマです。意識というのはさまざまなあり方があって、脳の中だけで完結しているわけではなく、情動、姿勢などを含めた体の状態、体から脳に伝わる感覚情報が意識のあり方に大きく関わっています。

 東洋と西洋では意識のあり方が異なり、それが「心」の意味の違い、そして心身一体論的なものの観方と、心身二元論的なものの観方の違いを生んでいる…という点がポイントです。それでは今回の内容に入ります。

 3 東洋の身心論による「意識」とは― 主観的・定性的・全体的

②主観的・定性的・全体的な東洋の心

石川光男(『西と東の生命観』)

 東洋的心身一体論を理解する際に気をつけなければならないことは、それが単なる論理的思考によって得られるものではなく、心身全体の体験を長い間積み重ねることによって、初めて得られるものだという考え方である。

 そのために、東洋の心身一体論は、自己の心身の鍛錬としての「修行」という概念と密接不可分である。すなわち、心身一如は心と身体を同時に鍛錬することによって体得すべきものであり、単なる知的理解の対象ではない(体得、また体認)。

 この点が、西洋の心身論が理性による知的思考を基礎としているのとは全く異なっている。東洋の心身論は、哲学的であると同時に経験的であり、実証的である。経験的、実証的であるという意味において、東洋的心身論は科学的研究の対象として検討すべき価値をもっている。

 しかし、東洋的心身一体論を、デカルト心身二元論や、現代科学の物質的一元論と単純に比較をすることは危険である。なぜならば、東洋的な心身観は西洋の心身観とは著しく異なった意味内容をもっているからである。

 まず第一に、東洋的な「心」は通常の理性や情動ばかりではなく、それらを越えた意味でのもっと深い意識をも含んでいる。ヨガにおける瞑想や、仏教の座禅においては、感情の動きや理性的思考を止めた特殊な意識状態の実現を目指して訓練を行う。

 心身一如の意味は、そのような特殊な意識状態で初めて「体得」されるものであって、理性の働きによるものではない。したがって、これを体得する場合に言葉は不要である。不要であるというよりも、むしろ邪魔であるといった方が正確であるかも知れない。これが二つ目の大きな差異である。

 西洋文化による心身論は、すべて言葉によって理解されている。それは理性による知的認識には「ことば」(数字、数式、記号を含む)が必要なためである。

 東洋の神秘思想を理解しにくい理由の一つはこの点にあるといってよい。東洋的にいえば、「心」とか「身体」とかいう「ことば」があるために、それらの言葉に付随する理性的概念が邪魔をして、本当の「知恵」に達することができないことになる。

…東洋の心身一体論は、時代遅れの「非合理的」思想であろうか。それは、体験によるという意味で主観的であり、心を扱うという意味で定性的(註)であり、全体をまとめて扱う(全体的)という意味で分析的でない。したがって、現代科学の方法論の定義に照らしあわせれば、明らかに「非合理的」である。また、現代科学の身体観に合わないという意味で、「非科学的」である。

 (註)定性的

 物事の様子やその変化を、数字では表せない「性質」の部分に着目して研究する。科学の客観的・定量的・分析的に対し、東洋は主観的・定性的・全体的である(第三章で詳述)。

 「道」に基づく教育は「肚(人間の中心)」を体得し、無意識を活用することに依るものでした。

 伝統的な「日本人の意識・心」は、「無我(無心)」を至上とした身体性による意識(無意識主体)というものであり、「西洋人の意識・心」(現代日本人の意識・心)は、「自我」という理性主体の意識なのです。