禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第四章 一 気で捉える身体=〔身体〕
1 体を拠り所として生きた日本人―〔身体〕の喪失がもたらした宗教の喪失
太古の昔から、どの民族においても、人は生きる上での「心の拠り所」を何らかの宗教に求めてきましたが、日本の文化では歴史的・伝統的に、教義に依らず「身(み)」という考え方(身体性)に依拠してきました(私の「心」と不可分な身体という意味が「身体性」という言葉の基本)。
これは、江戸時代以来の「気の医学・養生」に見られる、「心身一如」の感じ方であり、「不立文字(もんじをたてず)」である禅に通ずるものです。「生き方」を求めるに、教義に依らず身体性に依拠するとは、理性的理解ではなく身体と心(魂)に聴く、というあり方です。
師野口晴哉は「生命に対する礼としての整体操法」と言われ、操法の「型」を示されましたが、日本型仏教の影響を強く受けた武道や芸道における型と根において同じものです。
湯浅泰雄氏は東京自由大学のコラム「型と礼儀」の中で、
型を習得するということは、身体の技の訓練という意味だけでなく、その技の伝統の中に流れている心を受け継ぐ、という意味がこめられているのではないだろうか。つまり、身体と心の関係を「身体から心へ」という方向でとらえているわけである。西洋近代の哲学のように、常に心(この場合の心は自我意識)を先立てる態度とは反対である。
と述べていますが、西洋化したことでの現代における日本人の〔身体〕の喪失は、日本人にとっての「宗教」が失われたことに等しいのです(野口整体の身体は「心身」というもので、これを私は〔身体〕と表現する)。
「日本人は無宗教である」という言葉を聞かれたことがあると思いますが、正確には無の宗教なのです。
その教えは「型」という身体性に依拠していました。神道にも禅にも取り立てて「教義」というものはありません(キリスト教には明確に言語化された教えがある)。
宗教において西洋が言語的であるなら、日本は身体的というべきです(頭で考えた心を先立てるのが西洋的な宗教)。
欧米では無宗教と言うと「無神論者」という意味で、人間として不信感を持たれるそうで、日本人が外国を旅行する際の入国許可証には「ブッディスト」と書くことが多いようです。しばらく前までの日本の家庭では神棚があり、仏壇があって、元旦は神社に初詣でをし、お盆には坊さんに供養をしてもらうという程度の宗教との関わり方が一般的でした。
おまけにおそらく戦後の風潮でしょうが、クリスマスには「ケーキ」を食べ、女性の社会進出に伴って、バレンタインデーには男性に「チョコレート」を贈ったりする、ということまで入ってきましたが、これらは「万教帰一?」とも言える日本人の「無」の精神が、通俗化したものです(クリスマスやバレンタインデーは商業主義でもある)。
このように「無」というものは、何でも受容できるのです。また神道では八百万の神と言って、「多神教」であることが日本人の伝統的コスモロジー(宇宙観)なのです。
敬虔なキリスト教徒の人たちが毎週教会に出向き、「祈り」を捧げるという姿からは何とものんびりしたものに見えるものです。しかしこういった宗教との目に見える直接的な関わりでない、「内なる神」との向き合い方があったのです。
これが「道」でした。