禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 二4 自分の要求に目覚める
つい数ヶ月前(2013年初め)、旅行(パリ)に行った際、毎日五時間以上は歩きまわっていたのですが、活元運動を寝る前にしたためか、翌日に疲れが全く残らないのです。
旅行では時間がたっぷりあったので、朝もゆっくり活元運動を行ったのですが、湧き上がる喜びに包まれ、毎日心地よく過ごすことができました。活元運動の気持ちのまま出掛けるので、ニヤニヤ、ふわふわ、周りの人は怪訝だったかもしれません。
旅行中は、野口先生が書かれた
自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。
人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。活き活きしている。
大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。
(自分が変われば世界が変わる『風声明語』)
という文章を読み返しながら、金井先生から教えていただいた「腰を立て脊髄に息を通す」ことを意識し、「生きることの欣び(『月刊全生』」を何度も読むことで、今まででしたら、我慢や尻込みしてしまうようなことも臆することなくできました。
まず、パリの空港に着いた時のことです。予約してあった迎えの車が一時間遅れてようやく来たのですが、悪びれない運転手に対して咄嗟に「何時だと思ってるの!」と、苦情をはっきり言っていました。
また、恥ずかしながら、私は三十代位まで、一人では喫茶店に入れなかったのです。お店に入れても、緊張してしまい、味わえないのです。
ましてや海外で、一人できちんとしたレストランで食事などしたことがなかったのですが、今回は「行ってみたいな。やってみよう!」と思い立ったのです。
行く道すがらや、開店前にお店の前で待つ間、「やっぱりやめよう。帰ろう」と何度も思いました。その都度、手帳に挟んだ野口先生の言葉を読み返すうちに、「なんだか大丈夫」と思いはじめ、いつしか緊張も解け、その状態を楽しむ自分がいました。
お料理の味はまぁまぁでしたが、ウエイターとのやりとりを楽しめたことや、今まで絶対にできなかったことをやり遂げた満足感がありました。
ほかにも、野口整体を始めてからこの一年で、今まで感じなかったような充足感に包まれる時間が増えました。周りの評価があまり気にならなくなり、自分が何をしたいのか、何が嫌なのかがわかるようになってきました(それまで人に付き合うことを無理していた)。
身体の変化もあります。汗をよくかくようになり、毎年夏になると出ていた湿疹が出なくなり、身体が疲れにくくなり、毎朝ランニングをするようになりました。走ってももう腰は痛くなりません。
週末ごとに悩まされていた頭痛もめったにおきず、頭痛になったとしても薬を飲まずに経過できるようになりました。
爪も驚くほどよく伸びます。週に一回は爪を切っています。以前体調が悪い時は、ひと月以上爪を切らないことは普通でした。
この年齢で新しい世界に出会えたことは大変ありがたく、嬉しいことです。二十代で出逢えていたら、人生また違っていたのかもしれませんが、今までいろいろなことがあっての現在の出会いだからこそ、学ぶこと得ることが多いのだと考えています。
時には、以前のように、どうしようもないほどの孤独を感じて身体が緊張のため固まってしまうことがありますが、活元運動で気持ちが切り換えられることを知ったので、前ほど心も身体も粘着・停滞しなくなりました。
野口整体は、ああしなさい、こうしなさいという縛りがなく、とても自由です。だからこそ、奥が深く、自ら体験することでしか気づけない、身に付かないものだと思っています。
よく自己啓発系のセミナーや感動する映画や本を読んだ時に一瞬気持ちが盛り上がることがありますが、そういうものとは違い、確実に、着実に身心に根付いていく、身体で覚えていくという感じがしています。
最近、時間がある時に父の背中に愉気をします。始めるまでは拒絶されるのではないかと、言い出すまでに勇気が要りましたが、父がすんなり受け入れたので驚きました。
父の背中に触れていると、自分の身体が活元運動をしているように揺れ始め、とても気持ちがよくなります。母にも愉気をすることがあります。その後では、家の中が優しい気に包まれます。このことも、ものすごく大きな変化だと思います。
活元運動の訓練が進むと、病気を必要としない心身が育ってきます。要らなくなるというところに本質がありますが、病気の不要な身体の育成ということは、生命に対してまだまだ消極的な態度と言えましょう。
病気になって医薬を頼るだけでは真の健康人とはなりえません。また、個人指導への依頼心も同様で、自分自身の内側にある力を自覚し、生きる主体は自分自身だという気構えを築くことが修養としての道です。