後科学の禅 野口整体
臨済録を読みまして一番面白かったのは、生まれたままの自然の心の状態で、つまり赤ん坊と同じ心でというが、赤ん坊の心では役に立たないのだ・・・。と。 いろいろ迷い迷って、くだらない妄想などを描いて、そういうものを通してなお、生まれたての赤ん坊の心…
釈宗演が志した仏教の近代化 1891年、鈴木大拙(貞太郎)が参禅した鎌倉円覚寺の今北洪川師(1816~1892)は、元は大拙氏の父と同じ儒家でした。そして明治の初めに身分のある人(士族)と出家者に限られていた参禅の門戸を開き、一般人を受け入れる道場を始…
仏教東漸―極東の日本から、さらに東のアメリカへ 釈宗演師から鈴木大拙へと引き継がれた「仏教東漸」の志とその経緯については、webなどでも様々な資料を読むことができ、釈宗演師のところで再度述べる予定ですのでここでは割愛します。 一八九七年、大拙氏…
自分のことから始まる禅思想 前回で第二章が終わり、今日から第三部第三章 世界の大拙と近代仏教の先駆けとなった師・釈宗演の仏教東漸 が始まります。実は私が「やり過ぎ?」と思っていた所です・・・。この章は難しい! なぜなら、内容のほとんどは、鈴木大拙…
意識以前にある自分 野口晴哉先生による、「意識した自分」と「意識以前にある自分」についての文章を紹介します。この「意識した自分」=意識・自我、「意識以前にある自分」=無意識、として読むと、『禅と精神分析』とのつながりがより感じられると思いま…
自己知とは これまで述べてきたように、鈴木大拙はこの『禅と精神分析』の中で、自己(セルフ)、無意識について語っています。 自己知=自分を知る知というと、自分の性質にある意識できない問題や、潜在感情(コンプレックス)を知ることだと思う人も多い…
科学には「自分のことを考える智」はない(第二部第四章より) 参考として「科学的方法論では自分のことを考えることはできない」ことについての金井先生の文章と、河合隼雄氏の引用を掲載します。 金井・・・河合隼雄氏(臨床心理学者)は、近代以後発達した、…
科学にはない自己知 今回も『禅と精神分析』の続きです。鈴木大拙氏は、科学的見方の特徴について次のように述べています。 三 禅仏教における自己(セルフ)の概念 科学はどの分野も一様に外に向っており、いわば遠心的であるし、物を取り上げて研究する場合…
禅とは無意識を啓く「修行」 では前回の続き、鈴木大拙『禅と精神分析』に入ります。大拙氏は禅の無意識について次のように述べています。 …科学者は抽象を用いるのだが、抽象というものにはみずから発する力というものがない。しかるに禅はみずから創造の源…
昨日、岩波書店のHPで、落合陽一氏(メディアアーティスト・筑波大准教授)という30代前半の研究者が書いた『禅と日本文化』(鈴木大拙)の書評(「図書」掲載)を読みました。 落合氏は「僕が計算機と自然の間に存在する美的感覚を近著の『デジタルネイチ…
禅的な方法と科学的な方法 今回は続きです。今日の主題は、実在を認識するにあたって「禅的な方法」と「科学的な方法」のふたつが存在する、ということについてです。 鈴木大拙氏は、禅的な見方(方法)について次のように述べています(『禅と精神分析』中…
科学的客観の「見る」と禅的絶対主観の「観る」 今回、カテゴリー名に「後科学の禅」という言葉を使いました。これは第三部の題名で、鈴木大拙の「無意識」について述べた内容から取られたものです(『禅と精神分析』)。 私の無意識とはmetascientificすな…
無心の身体という東洋の自由 ①二元論における自由から一元論の自由へ 番組の解説者は「西洋の自由は、政府からの自由、キリスト教からの自由など、総じて何々からの自由である。東洋の自由、禅の自由は、自(みずか)らに拠る。まさに自由という言葉そのもので…
鈴木大拙について 今回から第二章の鈴木大拙著『禅と精神分析』を取り上げた内容に入るつもりでしたが、その前に、仏教が大切にしている「感情」と、第二章一にある金井先生の個人指導と禅についてお話したいと思います。 2018年11月、チベット仏教指導者の…
背筋をピンと真直ぐに!と言われると、後側面のグレーの線(外側)を意識する人が多いが、重力の線は体の中心(内側)を通っている。
「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体 今日から、未刊の本の上巻第三部 後科学の禅・野口整体 に入ろうと思います。 ここでは鈴木大拙の禅思想が大きく取り上げられ、野口整体との共通性について述べられています。 この際、正直に言うと、私…