野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 二2  四十年前の「兄の言葉」を憶い出す

ちょうど一年が経った日の個人指導 

 私は一 1で、次のように書きました。

「当分の間この様子を観てきた私は、ある個人指導時、それは、通い始めからちょうど一年という時でしたが、「この活発さは持ち前のもので…」と、何気なく、Yさんの右肘に触れながら言ったことがありました。

 そんな中で、彼女は自身の心の深層に降りて行ったようで、幼い頃の至極活発な自分を思い出し、指導の終わりに、それ(活発な心)が失われた時のことを私に話すことになりました。」

 小学校入学当時、Yさんは校庭の土手を段ボールで滑り下りたりするような子どもであったのですが、活発さが失われる出来事があったのです。

 それは、小学校一年生時のゴールデンウィークだったのですが、Yさんは当時を思い出したこの日の指導を振り返り、次のように述べています。

個人指導を受け始めて丁度一年という六月二日の指導の際に、先生が私の右肘をさすりながら、「…あなた、本当はおてんばだったんじゃないの?」と仰いました。その時、長い間忘れていた記憶がふっと浮かび、自然に話し始めていました。

 それは小学校一年生の時、日曜日の学校の運動場で、雲悌から落ちてしまい右肘を骨折したことでした。

 初めの病院での処置が良くなかったことがあり、その後別の病院で手術を受けたのですが、腕が伸びないため、治療費の高い治療院に長く通院し、費用の面でも母が苦労していたのです。

 この日の指導で思い出されたのは、過労から台所で嘔吐している母親の様子を見た兄に言われた「お前のせいで、ママは大変なんだぞ!」という言葉でした。

 いつもでしたら先生は両肩のあたりをさすってくださり、私は温かいものに包まれているようで安心した気持ちになっていたのですが、後で考えると、この日はその右肘をさすってくださったのでした。骨折したことも、兄の言葉も自分ではすっかり忘れていたことなので、大変驚きました。

 子供の頃、私の寝室は両親とはふすま一枚隔てた隣だったのですが、よくお金のことで夫婦喧嘩をしており、じっとそれを聞いていました。すべてが自分のせいのように思えて、自分の怪我で家族に迷惑をかけているので我儘を言ってはいけない、何か欲しいものがあっても言ってはいけないんだと思っていました。

 私が母に気にかけてもらえないのは、迷惑をかけているせいなのだから我慢しなければと思い、布団の中でよく泣いていました。

 外食をする際も食べたいものではなくて、「一番安いものを注文しなければ!」と、値段だけを見て決めていました。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 二  感情がはっきりすることで意欲的になる 1

活元運動を通して啓かれた潜在意識 

1「身心学道」の野口整体

 現在日本でも、禅が静かなブームとなっており、2009年には「道元(1200年生)」を主人公にした『禅 ZEN』という映画が話題になりました。

 1217年、道元建仁寺(1202年、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の援助を得て栄西が建立)にて栄西(註)の弟子・明全に師事し、さらに宋に渡り「曹洞宗」を日本に伝えました。

(註)栄西(1141年生)

 禅宗はインドから中国に渡った達磨大師を初祖とし、仏教の開祖・釈尊の悟りを追体験する宗派であり、そこに生きる生き方が「禅」。日本の禅宗の歴史では、道元以前に、中国・宋の時代、臨済義玄に始まる「臨済宗」を、栄西鎌倉時代(1191年)に伝えた(二度目の宋からの帰国後、1195年、博多に日本最初の禅道場・聖福寺を建立)。

 栄西は「心身一如」という言葉を遺しています。この言葉の、師野口晴哉における解釈を伝えたいと思います。

 栄西の説く「心身一如」とは、心身が調和しひとつになった状態で、「悟り」を得ることのできるほど精神集中が深まりきっていることを意味していますが、師は「人はどのような精神の状態でも、いつでも『心身一如』なのです」と。

 精神が調和しておらず、不調和きわまりない状態においても、身体を観ればその心の状態を察することができます。

 一般的には、心身(意識)がはっきり、しっかりしている状態を「心身一如」と言ってよいのですが、実は、いつでも「身(み)」の状態は「心」の状態であり、この意味で「いつでも心身一如なのです」と、師は言われたのです。

 このような意味から、身体の状態はそのまま精神のはたらきですから、野口整体は「身心学道(心に身を先立てる)」という道元の思想に近似しています。

「禅」による瞑想の訓練は、雑念をなくして、心が澄んだ状態を目指すものです。心理学的にみれば、これは自分の内に見出される特有の心の動き方に注意し、心のはたらき方をコントロールし、そのパターンを次第に変えていく訓練なのです。

 仏教の修行法には「常坐三昧」と「常行三昧」があります。常坐三昧は「坐りつづける瞑想法(坐禅)」、常行三昧は「歩きつづける瞑想法(遍路や回峰行など)」という意味です。私は伝統的な修行法に則り、「正しい正坐」を常坐に当て「活元運動」を常行に当てています。

 活元運動は「動く禅」と呼ばれ、頭を「ぽかん」とすることから始まります。こうして動きが出るようになると、動くことで心の中がよりからっぽになっていきます(→無心・天心)。

「自分とは何か、自分は何をしたいのか」と考えるよりも、「意識を閉じて無意識に聞く」という活元運動に身をゆだねることで、無意識の要求を受け取ることができるようになります(無意識と統合された意識状態になる)。

 もちろん、散歩、ウォーキング、また登山など、自分の好みで「正しく歩く」ことをすれば、より積極的な常行三昧となります。

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 一4 失われていた「本来の自己」を取り戻す― 易行道としての活元運動

 Yさんは、活元運動の体験と、活元運動が激しく動くようになってからのことを次のように述べています。

 個人指導を受け始めてから8ヶ月目ほど、活元会に参加するようになって半年くらい経った頃、T先生にご指導いただく中で、突然笑いがこみ上げてきました。その後、そういう自分に出会わせていただいたことが有難くて泣けてきました。

 活元運動では、泣いたり笑ったりの繰り返しとなり、自分でも止められなくて、何がなんだかわかりませんでした。

 その2週間後に受けた金井先生の個人指導から、激しい運動が出るようになったと記憶しています。指導中、活元運動を誘導されると、身体が自分の意思とは無関係に、ゴロンゴロンと大きく転がり始めました。

 腰痛がひどくなってからは、腰を回したり腹筋運動をしたりできなかったのに、縦横無尽に転がりはじめたので驚きました。先生には「あなたが自分で転がっているんだよ。」と言われましたが、信じられませんでした。

・・・

 指導を受け始めの頃は、帰りに駅まで送っていただく車の中で、お弟子さんから「弛みましたね」と言われても意味がわからず、帰りの電車の中での爆睡も「朝が早かったからかな…」くらいに思っていましたが、この頃から、弛むということや、弛んだまま、身体が自然に動き出したくなるということを実感するようになりました。

 指導の帰りは、弛んでふわふわした眠い状態なのに、熱海の駅まで歩きたくなることがあります。道場から少し歩くと海がキレイに見渡せる場所があるのですが、その景色を見ると身体の芯から喜びが湧きあがってきて、走り出したくなります。

 このままどこまでも走って行かれそうな気持ちになり、スキップというか小走りの状態で熱海駅まで帰ることもありました。また、帰宅してから、庭の手入れを始めることもあります。そして、家族に対して、とても柔らかい優しい気持ちになります。

 最初に個人指導申込メールを送った後、T田先生からいただいた返信メールに、「個人指導を受けながら活元指導の会にも参加して、活元運動が、それらしくなることが大切です。」と書かれていました。人が集まるところが苦手な私は個人指導だけでいいと考えていましたが、今では個人指導と活元指導の会の両面が必要だと実感しています。

 活元運動は、古神道に伝わる「霊動法」を体験した師野口晴哉により、近代的な思想が付与され新たに命名されたもので、「動く禅」とも呼ばれる瞑想法です。そして密教的易行道と名付けた人もあり、健康法であることのみならず、仏性の発現、また神人合一の境地を目指すという、宗教行となるものです。

 Yさんにおいては、失われていた「本来の自己」を取り戻す(これが仏性の発現)、という「身体行」となりました。

 身体行とは、各種「道」や仏教などの修行法を意味しますが、修行と聞くと、難行・苦行が想われる中で、この活元運動は、他力門(浄土教)同様、易行道(だれにでも容易(たやす)く行える修行の道)なのです。そして修行とは、身心の諸能力を訓練することで、新しい自己を目覚めさせることなのです。

 師は、錐体外路系の体育・活元運動について「生きるための教養」と題し、次のように語りました(1972.5整体指導法中等講習会『月刊全生』)。

生きるための教養

 私も大勢の人を治してきました。けれども、治す者がいるから弱くなるんだと、治す者がいるから本当の健康になれないんだということに気がつきまして、治療というものを捨てました。そして自分の力で健康を保っていくために、自分の持っている能力を自覚し、それを活用するように誘導する、または教育することが一番大事だと考えて、活元運動を普及することを始めたのであります。

 私が本書で活元運動について著すのは、師のこのような教養を流布せんとする志を受け継ぐものです。

補足(文責・近藤)

 文中に、活元会で「泣いたり笑ったりの繰り返しとなり、自分でも止められなくて…」という記述がありますが、活元会の場でこういう状態が発生した時は指導者が止めるのが一般的です(この場ではそうしなかったようです)。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章一3 活元運動が活発になる

 Yさんは、初めての個人指導を振り返り、次のように述べています。 

 初めての個人指導は2012年6月3日でした。

 最初のご挨拶は、腰痛のためお辞儀さえできなかったのですが、指導の中で活元運動が出始めると、その痛くて固まった腰が、自分の意識とは関係ないところで動いたことに大変驚きました。

 また、母に対する不満の言葉が勝手に口から出て、泣き出した自分に戸惑いました。(具体的な内容は全く覚えていないが、そういうことを思ってしまうことに罪悪感を抱いた)

 初めての活元運動はとても気持ちよく、ジェットコースターに乗っているかと思うほど頭がグルグル回って「なにこれ!どこへ行くの私?…」という感じでした。その日の個人指導の終わりに、正坐から立ち上がる方法を先生に教えていただきました。ぎこちないながらも、立ち上がれた事がとても嬉しく、金井先生の個人指導に手応えを感じました。

 Yさんには「感情を過度に抑制する傾向」があり、私が観察しても、背中の表情としての「感情」が読み取りにくい状態(混沌、また混乱を意味する)でした。

 彼女は小学校の数年間、教会に通っており、毎晩聖書を読み、「神様に愛され、幸せになるためには、良い行いをしなければいけない。」と信じていたそうです。

 ある時、私が仕事の前に、道場の前でのバイク騒音に対し強く苦情を言ったことを、彼女が見聞きしたのですが、その後、私が何事もなかったように、普段通り仕事に専念している姿を見て、自分もこうありたいと思ったそうです。

 またYさんは、私の本にある外反拇趾についての、「本気で生きてないとなり易い」(『「気」の身心一元論』117頁)という内容に対して、「本気で生きて、外反拇趾でなくなりたいと思います」と告げたこともありました。

 活元運動が活発になるにつれ、その中で笑い転げたり、また激しく動いたりするようになりました。

捕捉(文責・近藤)

 たびたび間が空いてしまい申し訳ありません。

 後半にある金井先生のバイク騒音についてのエピソードですが、こういう時決して先生は平然としていたわけではなく、一日の指導が終わった後はやはり疲れの色が出ているものでした。また情動を鎮めるためには相当に鍛錬が必要であり、それは「何事にも動じない」ということではありません。情動で身心が動いた後に、戻るべき地点が確立しているということです。

 外反母趾については足の指だけではなく腰の問題があり、金井先生はその意でこのエピソードを挿入しています。

 Yさんの活元運動についてはスタンダードではない要素を含んでいるため、この人の治癒へのプロセスとして読んでいただきたいと思います。

 

 

 

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 一2 『病むことは力』に出会い、自身の成育歴を振り返る

 これまで、指導例の中でも本人が書いた部分は掲載してきませんでしたが、今回から掲載していくことにしました。それは本人が寄せてくださった部分であっても金井先生との対話を経て書かれていること、相当に金井先生が手を入れ文章のやり取りをした経緯があるということが理由です。

 また、この章の内容は「個人指導の中での活元運動」が中心となっており、活元会などで活元運動を実践している方には共感できない部分もあるかもしれませんが、活元運動の潜在力、可能性の例としてお読みいただけたらと思います。

2 体調不良に悩んでいたYさん

 Yさんは、『病むことは力』に出会うまでの経緯について次のように述べています。

 私は、以前から腰痛や生理痛に悩まされており、鍼灸、整体(一般的な)、西野式呼吸法、気で治す中国の先生(テレビ出演で知った)等に通いました。

 また、他人に治してもらうのではなく「自分でなんとかしなければ!」と思い、ヨーガ、太極拳、ジムでのトレーニングなど、いろいろなことをしたのですが、体質は改善されませんでした。

 エドガー・ケーシー、シャーリー・マクレーンニューエイジ自己啓発のHOW TO本も読みましたが、これという内容に出会うことはありませんでした。

 また、身体が疲れやすいので体力をつけようと、ジョギングの本や靴まで買いましたが、走ったら腰が痛くなり、やめてしまいました。腰にも首にも、しこりがあり、揉んでも、温めてもなくなりません。

 2010年夏頃より、寝返りをすると目が覚めるほどの腰痛が続きました。2011年の春には、痛くて立ち止まると、腰が固まってしまい、足が出せなくなることがありました。いろいろな病院(整形外科・婦人科など)で検査をしましたが、筋肉、骨、内臓も全く問題はありませんでした。

 病院でもらった痛み止めを服用したり、湿布を貼ったり、鍼灸やヨーガに通う回数を増やしても改善しませんでした。 

 このような経緯を持つYさんは『病むことは力』を読んで、自分の身体が良くならないことと、自身の心の問題との関係について、次のように思ったとのことです。 

 読み進めながら、自分自身で身体の問題を作っていると再認識しました。「自分が考えているよりも、もっと深い部分に何かあるのではないか?身体だけではなくて、生き方そのものを変えたい!」と思いました。

「もっと肝が据わった人間になりたい。人目を気にせず、自分に自信がもてる人間になりたい。もっと楽に生きたい。生き直したい!なんとかしたい!」と渇望していました。

 私は粘着体質で、何かあると、いろいろと考え込んでしまい、眠れず、食べられず、ひとつのことにぎゅーっと行ってしまうのですが、そういうことと関係があるのかな、こういう性格は過去の問題が絡んでいるのかな、と思いました。

 なぜなら、それまでの私は、何かきっかけがあると、昔のことをいろいろと思い出してしまい、泣いてばかりいたのです。

 昔の我が家は二歳上の兄と私との「扱いの差」が大きく、母は公言するほど兄が自慢で大好きでした。母にとっては兄がすべてだったのです。

 私がどんなに良い成績をとっても褒められることはありませんでした。「私のこと好きじゃないの?」と聞くと、「母親は男の子がかわいいの。あなたはパパのところへいきなさい。」と言われていました。洋服や勉強机、裁縫道具や自転車等々、新品を買ってもらったことがほとんどなく、いつもお下がりでした。鏡台も親戚のお下がりで、成人式もありませんでした。

 兄が、大学を獣医学部(六年制)へ進んだことで、兄から「獣医はお金がかかるからお前は公立の短大に行ってくれ」と言われました。大学は一校受けるのにお金がかかるので、受験料が五千円ですむ公立短大一校のみ受験しました。

 短大時代から付き合っていた人と結婚しようという時、相手の両親に「四年制大学を出ていないから」という理由で断られ、ますます自分が誰にとっても価値のない、だめな人間のように思えて自信がなくなってしまいました。

 その後誰かとお付き合いすることになっても、「私、短大しか出ていないんですけど、そんな私でいいのですか?」と尻込みしてしまうのです。

 そもそも勉強したくても塾に行かせてもらえなかったし、大学の選択も「我慢して」と言われたから我慢しちゃったし、でも本当に四年制大学に行きたかったら奨学金でも貰えばよかったじゃんと思う自分もいるし、そうは言ってもあの時は我慢するしかなかったという思いもあるし…このように、自分でも本当のところは、何がしたいのかわからなくなってしまうことがよくありました。

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 活元運動を通して啓かれた潜在意識 一1

 これまで、指導例の中でも本人が書いた部分は掲載してきませんでしたが、今回から掲載していくことにしました。それは本人が寄せてくださった部分であっても金井先生との対話を経て書かれていること、相当に金井先生が手を入れ文章のやり取りをした経緯があるということが理由です。

 また、この章の内容は「個人指導の中での活元運動」が中心となっており、活元会などで活元運動を実践している方には共感できない部分もあるかもしれませんが、活元運動の潜在力、可能性の例としてお読みいただけたらと思います。

2 『病むことは力』に出会い、自身の成育歴を振り返る― 体調不良に悩んでいたYさん

(金井)Yさんは、『病むことは力』に出会うまでの経緯について次のように述べています。

 私は、以前から腰痛や生理痛に悩まされており、鍼灸、整体(一般的な)、西野式呼吸法、気で治す中国の先生(テレビ出演で知った)等に通いました。

 また、他人に治してもらうのではなく「自分でなんとかしなければ!」と思い、ヨーガ、太極拳、ジムでのトレーニングなど、いろいろなことをしたのですが、体質は改善されませんでした。

 エドガー・ケーシー、シャーリー・マクレーンニューエイジ自己啓発のHOW TO本も読みましたが、これという内容に出会うことはありませんでした。

 また、身体が疲れやすいので体力をつけようと、ジョギングの本や靴まで買いましたが、走ったら腰が痛くなり、やめてしまいました。腰にも首にも、しこりがあり、揉んでも、温めてもなくなりません。

 2010年夏頃より、寝返りをすると目が覚めるほどの腰痛が続きました。2011年の春には、痛くて立ち止まると、腰が固まってしまい、足が出せなくなることがありました。いろいろな病院(整形外科・婦人科など)で検査をしましたが、筋肉、骨、内臓も全く問題はありませんでした。

 病院でもらった痛み止めを服用したり、湿布を貼ったり、鍼灸やヨーガに通う回数を増やしても改善しませんでした。 

(金井)このような経緯を持つYさんは『病むことは力』を読んで、自分の身体が良くならないことと、自身の心の問題との関係について、次のように思ったとのことです。

読み進めながら、自分自身で身体の問題を作っていると再認識しました。

「自分が考えているよりも、もっと深い部分に何かあるのではないか?身体だけではなくて、生き方そのものを変えたい!」と思いました。「もっと肝が据わった人間になりたい。人目を気にせず、自分に自信がもてる人間になりたい。もっと楽に生きたい。生き直したい!なんとかしたい!」と渇望していました。

 私は粘着体質で、何かあると、いろいろと考え込んでしまい、眠れず、食べられず、ひとつのことにぎゅーっと行ってしまうのですが、そういうことと関係があるのかな、こういう性格は過去の問題が絡んでいるのかな、と思いました。

 なぜなら、それまでの私は、何かきっかけがあると、昔のことをいろいろと思い出してしまい、泣いてばかりいたのです。

 昔の我が家は二歳上の兄と私との「扱いの差」が大きく、母は公言するほど兄が自慢で大好きでした。母にとっては兄がすべてだったのです。

 私がどんなに良い成績をとっても褒められることはありませんでした。「私のこと好きじゃないの?」と聞くと、「母親は男の子がかわいいの。あなたはパパのところへいきなさい。」と言われていました。洋服や勉強机、裁縫道具や自転車等々、新品を買ってもらったことがほとんどなく、いつもお下がりでした。鏡台も親戚のお下がりで、成人式もありませんでした。

 兄が、大学を獣医学部(六年制)へ進んだことで、兄から「獣医はお金がかかるからお前は公立の短大に行ってくれ」と言われました。大学は一校受けるのにお金がかかるので、受験料が五千円ですむ公立短大一校のみ受験しました。

 短大時代から付き合っていた人と結婚しようという時、相手の両親に「四年制大学を出ていないから」という理由で断られ、ますます自分が誰にとっても価値のない、だめな人間のように思えて自信がなくなってしまいました。その後誰かとお付き合いすることになっても、「私、短大しか出ていないんですけど、そんな私でいいのですか?」と尻込みしてしまうのです。

 そもそも勉強したくても塾に行かせてもらえなかったし、大学の選択も「我慢して」と言われたから我慢しちゃったし、でも本当に四年制大学に行きたかったら奨学金でも貰えばよかったじゃんと思う自分もいるし、そうは言ってもあの時は我慢するしかなかったという思いもあるし…このように、自分でも本当のところは、何がしたいのかわからなくなってしまうことがよくありました。

 

 

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第三章 活元運動を通して啓かれた潜在意識 一1

一 失われていた「本来の自己」を取り戻す

1 自我の主体性を奪う「コンプレックス」― 四十年前の記憶が蘇る2013年6月2日の個人指導

 個人指導に通い始めから、活元運動がよく出たYさん(女性・四十代)の指導例です。

 この人は感情を過度に抑制する傾向があり、それは、幼い時の宗教的な教えが入ったからではないか、などと初めのうち私に話したりしていました。

 しかし、活元運動が活発になるとその中で笑い転げたり、後には激しく動いたりするようになりました。

 当分の間この様子を観てきた私は、ある個人指導時、それは、通い始めからちょうど一年という時でしたが、「この活発さは持ち前のもので…」と、何気なく、Yさんの右肘に触れながら言ったことがありました。

 そんな中で、彼女は自身の心の深層に降りて行ったようで、幼い頃の至極活発な自分を思い出し、指導の終わりに、それ(活発な心)が失われた時のことを私に話すことになりました。

それは、小学校一年生の時、雲梯から落ちて右肘を骨折したことでした。

 当時、初めの病院での処置が良くなかったことがあり、別の病院で再手術をし、その後有名な治療院にも通い、治るまで長くかかったそうです。

 それで、母親が費用の面で苦労していたようで、過労から台所で嘔吐している母親の様子を見た兄が、「お前のせいだ!」という言葉を投げかけたそうです。以来、この人は「良い子」を生きるようになってしまったようです。

 ここで、私がこの話を取り上げるのは、Yさんは、ここ数カ月「生き方」に目覚め、「生き直し」の意志を持って、来始めとは全く違うYさんとなっており、こういう中で、四十年にもなるという、その時の「兄の言葉」を明瞭に憶(おも)い出したからです。

Yさんにおいては、「兄の言葉」が潜在意識に入り、とにかく人に迷惑をかけないよう、感情を抑え、人に気に入られようとして生きるようになったようです。

 右肘に触れながら、先のように語りかけることで、Yさんはその時(四十年前)の心象風景を、深々と思い出していたのです。

 自我の主体性を奪う「コンプレックス」形成の核となった出来事が、瞑想法である活元運動によって呼び起されたのです。