禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四7 活元運動についての質問に答えるⅡQ4②
このところお休みが多く申し訳ありません。今回は非常に大切な内容で、金井先生がよく言っていたことそのものです。かつては(もしかすると今でも)活元運動をしてさえいればいい、自然と良くなっていくという説明がなされることがありました。
でもそんなことはなく、活元運動とは何かという理念を理解し、活元運動の後の自分と普段の自分、要求と行動・生活をひとつにしていくことで、意識と無意識の統合を図っていくことが整体生活なのです。そしてこの中で述べられている「対話能力の発達」も重要です。自分の要求や感情を言えない・出せない・我慢することを「適応」の手段とするのではいつか行き詰まるもので、真の信頼関係も心の発達も得られません。それでは今回の内容に入ります。
② 活元運動と感情の発散― 対話能力の発達こそが精神的成長
私は活元指導の会主催者としての、また個人指導の経験からの考え(思想)を、次に述べたいと思います。
師の引用文にあるように「内面の力を揺すぶり起す」ため、泣く、喚(わめ)くなどして、感情を発散する人があります。
活元運動の「無意識」という言葉から、心の闇に隠れていた部分が、運動中に勝手に出てくるのではないかと思う人がいるかもしれませんが、そういうものではありません。
(活元運動が出ても、決して意識が無くなるわけではない。意識の変容はある)
強く感情を抑圧している人でも、意識で人前で出したくないと思えば、そのような行為にはならず、そういう場で出したくなっている人が出しているわけです。
しかし、活元運動の中で、泣きたい、叫びたいという人は、その人の内在する自然の力を揺すぶる上での必要性があるのですが、活元会に同席している人で迷惑に感じる人もあるのです。
そして、活元運動初心段階から進み、よく出るようになって当分の間、奇声を発するという狂騒的エネルギーの解放として活元運動を用いている人があります。こうした人に、自我の未熟さ(他者との対話能力の未発達)が見受けられるのです。
つまり、人間関係において(対話不足によって)絶えず「抑圧」が生じており、それを、活元運動の場での「感情の発散」としている面があります。このような活元運動をして「さっぱりしました」ということを、いつまでも繰り返すのみでは精神的成長が図られないのです。
それは、身体運動として活元運動に向き合っているが、精神には向き合っていない、ということでは心身は成長しないからです。
体がさっぱりしていなかったのは、自分の心がどのようであったかを感じ捉えて、心に抱えていた問題を解決していくことを考え、実行することが大切です。このような意識を持って、自分の無意識(身体)に向き合うことが禅的な態度なのです。
また、他者に感情表現が受け取られる時、その人の心は深くなるもので、落ち着いて「訴えたい心」をまとめ、相手に心が伝わるよう対話することを、普段の生活で心がけることです。成長を通して、意識がより高度化(覚醒)することが活元運動の瞑想法としての目的です(活元運動は狂騒的エネルギーの解放ではない(終章二 3参照))。
禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四7 活元運動についての質問に答えるⅡQ4①
今回の内容は、活元会におけるふるまいについての内容で、活元会に参加したことのない人の中には「え、そんな人いるの!?」と思う人もいるかもしれません。指導者個人の資質や許容範囲などによる部分と、参加者がどんな人か、またその場の雰囲気がどのようかなど様々な要素がありますが、そういう人を目にする可能性もあります。
昔、野口晴哉に整体を学んでいた人で、戦後野口晴哉から離れて団体を設立した人がいました。その団体は今も手技療法の世界では一定の規模を保って存続していますが、その団体の創始者が野口晴哉から離れた理由は活元運動だったとのことです。
その人は活元運動を危険なものとみなし、活元運動によって抑圧された情欲がむき出しとなって、かなり荒れた、品性のない姿を会場でさらけ出す人が続出するとか、隠れた精神疾患の引き金になると考え批判していました。
野口晴哉はそうした可能性が否定できないことは認めており、危険な兆候を見つけ、必要に応じて活元運動を止める技術のある人に活元運動の指導をさせていました。
そして晩年、野口晴哉が活元運動を普及させるうえで最も大切にしたことは、「実践する人が活元運動をどのように理解するか」でした。無意識の運動と言っても、意識と切り離されているわけではなく、意識と無意識が溶け合っていくことが活元運動の大きな目的です。これがトランス状態や意識喪失、集団ヒステリー的な状態などと全く異なる点だと思います。
それでは今回の内容に入ります。
Q4 泣いたり、叫んだりする人が会場にいたのですが、これも活元運動ですか?
「本能的療法」であった霊動法から「身心の発達を目的とする体育」としての活元運動へ
① 活元運動という「本能的療法」に伴う哭き、叫び
師野口晴哉は活元運動における感情の言語的、また身体的表現について、次のように述べています(『野口晴哉著作全集 第二巻』昭和十一年(一九三六年)(推定))。
触手療法のあらまし
吾々が病気になって之を治そうとしても、何ら治療の武器を持たなかった時代には、如何なる方法を執っただろうかと考えてみますのに、最もプリミチーヴ(自然のまま)な原始の時代にありましては、先ず元気を揺すぶり起す、即ちからだを躍動させるとか、振動するとか、例えば古代日本の振魂(ふりたま)、鎮魂(たましずめ)の法(霊動法)の如く、人間のからだの裡に潜んでいる或る力を揺すぶり起すような、いろいろの所作をしたのでありましょう。
苦痛に際しては泣き、喚(わめ)き、悶え、暴れ、転がる、そうして内面の力を揺すぶり起す機会を無意識に造ったのだろうと思われます。
現に今日、吾々のしている欠伸、伸び、嚔(くしゃみ)、咳嗽(がいそう・咳)、嘔吐、下痢などは、肉体の違和に対する自然の本能的療法でありまして、之に伴ふ哭(な)き、叫び、呻(うめ)き、いきみ、又之に伴う手振り、身振りは、内在する自然の力を揺すぶる方法であることは、今も昔も変りがないのであります。
又勿論一方には、手を当てて押す又叩くというような積極的に自分から自分の弛んでいる力を揺すぶってゆく方法もあったに相違ないのでありますが、何れにしても吾々の持っている裡なる力を振作して、身体の異常、又は病気に処してきたものに違いがありません。
自分だけでは揺すぶり起し切れない場合、或はその及ばない部分に対しては、他人が立会って手を当ててそこを押さえたというようなことも考えられるのであります。
吾々は今でもお腹が痛ければ、ふとお腹を押へる、ハッと吃驚(びっくり)すると思わず胸を押える、歯が痛むと自づと頬を押える。
そうすれば痛みが去るだろうとか、こうしたら治るだろうとか、左様な思惑や目的を以てやるのでなく、ただ無意識に反射的に、極めて自然にやっている。その結果に就いてどうこうというような考えは少しもない。
註( )は金井による。原文は旧仮名遣い。
これは師が、触手療法、つまり愉気法を説明しようとしたものですが、その内容は、むしろ活元運動を説明するものとなっています。
本能的療法としての活元運動には、引用文中にあるような面があってよいのですが、この文章は近代化が一通り終わり、古代日本に見られる、人間の自然を呼び起こすような宗教儀礼はすでに失われつつあった時代に、人間の「本能の力」を活かすことについて師が説いた内容です。
また、当時は活元運動を行う上で、「病気の治癒」が目的の一つとされておりましたが、師はその後、治療という段階から教育(身心の発達を目的とする体育)へと進化していきました。
禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四7 活元運動についての質問に答えるⅡQ1・Q2・Q3
7 活元運動についての質問に答える Ⅱ は、主に活元運動をすでに始めている人のためのQ&Aで、より実践的な内容となっています。
Q1 活元運動中に、この動きでいいのかを考えてしまうのですが…。
「内に向かう」という心(潜在意識)のはたらきが弱く、また潜在的に不安なまま活元運動をしていると、「これでいいのかな?」などと考えてしまうことがあります。
頭が抜け、深いレベルの意識状態になり、本物の運動が出ると、このようなことを考えることはありません。経験のある指導者に導かれると良いと思います。
Q2 運動が終わらない場合、どこまでやったらいいのですか?
「集注力」のないまま、だらだらとした運動を続けている場合が考えられます。本物の運動が出ると、勢いがあり、「終わり」も分かるものです。そして要求が充たされると裡で変化を感じるものです。それで終えることができます。
活元運動においても、「始めと終わり」がはっきりしている時は終わりやすいですね。しかし、中には本物の運動が何日も続く人があるようです。
時間的制約がなければ、終わるまでやればよいのですが、時間の都合で終わらなければならない時は、動いている中で、眼を閉じたまま、お腹に息を吸い込んで、「こらえては吐く」を二度、三度繰り返し、息を吸い込んだ時、動きが止まったのを確認したら、右目、左目と開き息を吐きます。このようにして中断することができます。
Q3 家で一人で活元運動をして、「オエッ」と吐き気が起こり、気分が悪くなったことがありましたが、どうしてでしょうか(仕事のモードのままで、ゆったりしていなかったかも知れません)。
頭が忙しい時は行ってはいけません。
普段頭を忙しく使っている人は、「ぽかん」とするよう、あくびや涙が出るぐらいに、準備運動の「邪気の吐出法」を回数多く行なうと良いでしょう。
活元運動を行う(活元運動に入る)に適切な身心の状態というものがあり、ある程度出るようになった人は、どういう状態の時、行うと良いかを感じていくことが大切です。
禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四6 Q6・Q7
Q6 毎日やった方がよいのでしょうか?また、いつやるといいのでしょうか?
体の要求として「やりたい時に行う」ということが大事なことですが、初心者は始めから、このような要求が分かるわけではありませんので、一定期間、毎日のように取り組んでみるのが良いと思います。
一日の内でいつやるかについては、体の硬張りが弛むようにするのが活元運動ですから、寝る前にやるのが一番効果的だと思います。弛むことで熟睡しやすくなるため、私もなるべく毎日行っています。「天心にかえって眠る(本章二 6)」ため、活元運動を活用しましょう。
Q7 意識(顕在意識)や潜在意識、無意識について教えて下さい。
心のはたらきについて、生理心理学的に心身相関を調べるために、「…意識」ということばが使われます。
普通、知覚できる意識の作用としては、感覚と思考と感情があげられます。これらは顕在意識(また表層意識)と呼ばれます。
これに対し、普段の意識には容易にのぼってこない意識があり、精神分析などの方法によって意識化できるものを潜在意識(また深層意識)と言います。
十分に自覚できない情動が蓄積(感情が陰性的に、かつ瞬間的にはたらき潜在意識化)したものはコンプレックスと呼ばれます(コンプレックスは潜在意識。無意識として扱われることもある)。
知覚できない意識としては、この他に生命維持作用があり、心臓の鼓動や食物の消化、発汗作用、ホルモンを分泌する内分泌系のはたらきなどは、すべて意識されないうちになされます(自律系・不随意運動)。これを無意識と言います。
このように、人の意識を三つの層に分けて理解するのです。
活元運動は無意識の運動と言われますが、意識がない状態で行おうというのではありません。意識がありながら心が鎮まっている(瞑想)状態で、潜在意識・無意識が優位になることから「錘体外路系」のはたらきが活発となり、活元運動が発動するのです。
(意識・潜在意識・無意識という言葉の使い方は厳密ではなく、区分の仕方は個人差がある)
しっかりと鎮まった意識の下に「無意識」の運動(訓練としての活元運動)が行われるのが良く、この時、意識と無意識のつながりが確かなものとなり、運動が発展的なものとなるのです。そして、「意識を以って行うからこそ、無意識を訓練することができる」のです。
意識を閉じて無心に聞く
禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四6 Q4・Q5
今回の質問「頭がぽかんとするというのが分からない」というのは、今、野口整体を教えるのがいかに難しくなっているかを端的に表す質問です。本当に何も考えていない状態というのがない人が多く、頭が過敏で休まらないのが常態化していることが多いのです。野口晴哉は現代人のこのような頭の状態を憂いていました。頭の過敏は体の鈍りの問題と一つなのです。
Q4 「ぽかん」というのが良く分からないのですが?
「考える」ことで頭を多く使う現代人には、始め「ぽかん」が難しいものです(頭(意識)に偏ることが現代人の問題点)。
それまで頭を忙しく使ってきた人は、意識が「ぽかん」とするには、先ず「ぼんやり」とすることです。「ぼんやり」は、あくまで「ぽかん」の始めでしかありませんが、やがて「ぽかん」が分かるものです。そして、本当の「ぽかん」は「天心」というもので、澄んだ心を指しています。
頭がぽかんとする(「考える」ことが止(や)まる)ことで、体の「感ずる」はたらきとなり、身体感覚(潜在意識)が発達するようになるのです(「頭を熱くしていては感ずるということはない。」野口晴哉)。
Q5 活元運動が上手になるにはどうしたらよいでしょうか。
師野口晴哉は活元運動の「上手下手」について、次のように述べています(『月刊全生』相互運動の心)。
*活元運動の進歩とは自然になること
活元運動に上手下手はございません。体が鈍っている処を治さなければならないなら余分な運動が出ます。過敏があれば過敏な処が激しく動きますから大きく動きます。けれども、大きく動くべくして動き、動くべからずして動かないのなら別段異常ではない。体の状態の正常な反映として運動があることが良いのです。
そういう意味で敢えて進歩を言うならば、心が天心で、その人生観が自然に従って素直に生きてゆくということです。そういう自然の感じ方が身につくか、つかないか、意識的な努力、意識的な気張りでやっているかどうかということが、上手と下手を分けると思うのです。
そういう気張りがだんだん無くなってくると、運動が自然になる。運動の現象が変らなくとも、運動の内容は、その人の心を清めるように動いてゆくと思うのです。つまり上手下手でなくて、その自然の感じというものが身についたかどうかということの方に問題があると思います。
右の師の観点の他に、次のような面があります。
活元運動が本物になるまでには積み重ねが必要で、活元運動は続けることで「自分(身体・無意識)に対する信頼」を培う「行」であると思います(信頼によって「自然」が身に付く)。
それには腰の軸ができることです。つまり、本来の中心である腰の支えができることで運動は大きく変化するのです。その変化とは、上体が柔らかく大きく動くことです。腰の軸が感じられない時には出ない運動で、腰ができ、上体の自由度が増すことは、それまで自分を狭めていたものから解放されるのです。(これが「上虚下実」の身体)