禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第二章 四6 Q4・Q5
今回の質問「頭がぽかんとするというのが分からない」というのは、今、野口整体を教えるのがいかに難しくなっているかを端的に表す質問です。本当に何も考えていない状態というのがない人が多く、頭が過敏で休まらないのが常態化していることが多いのです。野口晴哉は現代人のこのような頭の状態を憂いていました。頭の過敏は体の鈍りの問題と一つなのです。
Q4 「ぽかん」というのが良く分からないのですが?
「考える」ことで頭を多く使う現代人には、始め「ぽかん」が難しいものです(頭(意識)に偏ることが現代人の問題点)。
それまで頭を忙しく使ってきた人は、意識が「ぽかん」とするには、先ず「ぼんやり」とすることです。「ぼんやり」は、あくまで「ぽかん」の始めでしかありませんが、やがて「ぽかん」が分かるものです。そして、本当の「ぽかん」は「天心」というもので、澄んだ心を指しています。
頭がぽかんとする(「考える」ことが止(や)まる)ことで、体の「感ずる」はたらきとなり、身体感覚(潜在意識)が発達するようになるのです(「頭を熱くしていては感ずるということはない。」野口晴哉)。
Q5 活元運動が上手になるにはどうしたらよいでしょうか。
師野口晴哉は活元運動の「上手下手」について、次のように述べています(『月刊全生』相互運動の心)。
*活元運動の進歩とは自然になること
活元運動に上手下手はございません。体が鈍っている処を治さなければならないなら余分な運動が出ます。過敏があれば過敏な処が激しく動きますから大きく動きます。けれども、大きく動くべくして動き、動くべからずして動かないのなら別段異常ではない。体の状態の正常な反映として運動があることが良いのです。
そういう意味で敢えて進歩を言うならば、心が天心で、その人生観が自然に従って素直に生きてゆくということです。そういう自然の感じ方が身につくか、つかないか、意識的な努力、意識的な気張りでやっているかどうかということが、上手と下手を分けると思うのです。
そういう気張りがだんだん無くなってくると、運動が自然になる。運動の現象が変らなくとも、運動の内容は、その人の心を清めるように動いてゆくと思うのです。つまり上手下手でなくて、その自然の感じというものが身についたかどうかということの方に問題があると思います。
右の師の観点の他に、次のような面があります。
活元運動が本物になるまでには積み重ねが必要で、活元運動は続けることで「自分(身体・無意識)に対する信頼」を培う「行」であると思います(信頼によって「自然」が身に付く)。
それには腰の軸ができることです。つまり、本来の中心である腰の支えができることで運動は大きく変化するのです。その変化とは、上体が柔らかく大きく動くことです。腰の軸が感じられない時には出ない運動で、腰ができ、上体の自由度が増すことは、それまで自分を狭めていたものから解放されるのです。(これが「上虚下実」の身体)