野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三3①

昔の日本では、動作や坐法など、体の状態を保持する教育を「躾」として大切にしていました。これは「気」を確かに持ち、心を静め、安定させることを目的としています。

 今は、行動・衝動を抑制することを言葉で教え、体に教えるのは「体罰」というのが一般的になって来ていますが、昔は体を通して心のあるべき状態を教えていたのです。

 こういうことを金井先生から整体を通じて学んだのですが、それ以前は私自身にも、体というのは何か支配したり、管理したりするべき対象という潜在的な思い込みがあり、自分の体に対する信頼は薄かったと思います。

 このように私たちの体に対するまなざしは、昔の日本人とははっきり違っているのです。こうしたことを踏まえ、今回の内容を読んでみてください。

 3 東洋の身心論による「意識」とは― 主観的・定性的・全体的

①心身一如の人間観

「道」は、日本的宗教意識(霊性)を養うための哲学的な原理で、日本人を日本人たらしめてきた倫理や道徳、そして「行法」(身体行=修行・修養・養生)の体系を意味するものです。

 中国思想の原典『易経』に始まる「道」は、日本に伝わった後、日本人のあり方(生きる道(みち))として独自に発達しました。また同じく中国から、13世紀(鎌倉時代)に伝わり、日本的に発展した「禅」、これらは、日本文化全体に大きな影響を与えてきました。

 敗戦までの日本には、このような「道」― 人格を磨き生き方を高めるための道筋 ― があったために、意識と無意識の統合、また自と他の一体性、直観力(物事の本質を捉える能力)を育てる教育に優れていました。

 直観力は身体、心理学的な表現では無意識によるもので、修養・養生という江戸時代までの身体性の教育が、これを養っていたのです。このような教育を支えていたのが行儀・礼儀作法でした。

 石川氏は東洋における「心と体」について、次のように述べています。(『西と東の生命観』) 

心身一如

 東洋の人間観の特徴は、心身一如という表現に集約される。すなわち、心と身体を一体不可分なものとしてとらえていこうとする態度である。このような態度は、東洋的な連続的自然観と共通の思想的基盤をもっているといえよう。

デカルトに代表される心身二元論的人間観が、非連続的自然観と類似の性格をもっている点と対比させるならば、東洋と西洋がもっている思想的枠組みの差異が、ここにもはっきりと表れている。

 西洋文化にみられる分離思想(註)は、ものごとを分析的に区別してとらえようとする科学的な思考にとっては、大変に都合の良い発想法である。近代自然科学がこれまで発達してきたのは、この分離思想に負うところが大きい。特に、自然から心を排除するという考え方を基礎として、近代科学は大きな発展をとげてきた。

 しかし、現代科学(現代物理学の意ではない)が、生物、特に人間を研究するにあたって、心と身体を分離する二元論的自然観を無条件に適用してよいかどうかは慎重に検討しなければならない。

現代科学は西洋とは異なる視点をもっている東洋的心身一体論から、何かを学びとる余地を残していないのであろうか。

 (註)分離思想 自然の中で人間を特異な存在として分離する考え方。