野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

鈴木大拙と現代―後科学の禅・野口整体 番外編

 昨日、岩波書店のHPで、落合陽一氏(メディアアーティスト・筑波大准教授)という30代前半の研究者が書いた『禅と日本文化』(鈴木大拙)の書評(「図書」掲載)を読みました。

 落合氏は「僕が計算機と自然の間に存在する美的感覚を近著の『デジタルネイチャー』で侘と寂で表現したのもこの新書からの多大な影響がある。」と述べています。

 ついでに氏の著書『デジタルネイチャー―生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS 2018年)のまえがき(web無料公開)を読んでみると、そこにあったのは「近代の超克」という言葉。

 超克とはどういうことかについては、金井先生とは違う見解ですが、落合氏は「現代は未だ近代である」という認識で、共通していました。

(ちなみに落合氏は「3年前は熱海の人里離れた山奥の旅館で『魔法の世紀(前著)』を脱稿した。」とも述べており、これにもびっくり!)

 野口整体とは違う立場ではありますが、こういう思想問題を取り上げる若い研究者がいて、しかも、落合氏は今、最もエッジな思想を展開しているのだそうですから、金井先生もびっくり!というところでしょう。

真の実在に向って進む二つの道―後科学の禅・野口整体 4

禅的な方法と科学的な方法

 今回は続きです。今日の主題は、実在を認識するにあたって「禅的な方法」と「科学的な方法」のふたつが存在する、ということについてです。

 鈴木大拙氏は、禅的な見方(方法)について次のように述べています(『禅と精神分析』中略・改行あり)。

二 禅仏教における無意識

・・・(客観的に観察し分析する科学的方法は)水から網を引き揚げてみて、ハテ何カ網目カラ逃ゲ出シテイルナ、と言うことに気が付く。しかし実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやってくる方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。

禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいって行くのである。そして実際そのものの中からモノを見るのだ。花を知るには花になるのだ(金井・自他一如)。

・・・花を知り得たこの「知」によって全宇宙の神秘を知るのである。この神秘は実は私自身の〝自己(セルフ)〟の神秘でもあるのだ。この自己の神秘こそかつての私は私の全生涯をかけてこれを追究したにもかかわらずどうしてもつかまえることが出来なかったものなのだ。

 どうしてだったかと言うと、私自身が追っかける私と追っかけられる私、つまり、モノと影との二つに分かれていたからである。こういう鬼ゴッコをしていたのではいつまでたっても私の自己がとらえられなかったのも無理のない話なのだ。

 どうもこの鬼ゴッコには実は私も力つきてクタクタになってしまった。がしかし、一たび花を知った私は、同時に自己を知ることが出来た。つまり花のまっただなかに自己を喪失して(金井・無我・無心となって)、初めて私は自己を知り同時に花を知ったのである。

 「モノと影との二つに分かれていた」とは、身心が分離していたということです。ここについて、金井先生は次のように述べています(改行・中略あり)。

 身心一如・自他一如(無我・無心)により、そのものの中に入って、そのものを知る禅的な方法は、「自己を知り同時に花を知」ることになるのです。

科学は主客分離による対象化の知であり、禅の自己智とは主客未分の一体化の智なのです(他を知る智でもある)。

 野口整体の整体指導者である私にとっては、西洋医学的方法に対しての「野口整体的行法」であり、その第一は個人指導における観察法そのもの(引用文傍線部)なのです。

 氏は・・・「科学の網の目」と表現し、科学は実在の全てを掬(すく)い取るものではないことを述べています。

 私が本書で、この「禅仏教に関する講演」を挙げた理由はここにあり、心の世界における実在は科学的には捉える事が出来ないものなのです(具体的な内容についてはここでは触れない)。

 科学的方法によって分かることと、禅的方法によって分かることがあるのです。大拙氏は、この二つの法(科学的方法と禅的方法)を「真の実在に向って進む二つの道」と表現したのです。

 大拙氏はこの禅的な観方を「絶対主観」と呼びました。しかし「いかに深々(しんじん)たる感得、神秘な言葉、絶対主観の哲学といったものがあっても、こういうところを実地に体得した人でなければ、それがじかにひびいて来ないのである」と述べています。

 この点について金井先生は「禅の哲学的知とは、体得(十分会得すること)、体認(体験してしっかり会得すること)によってのみ認識できる)。」と解説しています。

 自分が今見ている世界は、科学的には普遍的な、誰にとっても同じ世界だということになっています。モノしか見えない目には、それが現実だと認識されており、現代ではそういう人が多数派で、体は物質的な原理で支配できると考えられています。

 しかし、人によって見ている世界は異なります。そして、行をした人にのみ観える世界があり、「心の世界における実在(真の実在・生命)」はその身心一如の眼によってしか見えないのです。

 東洋宗教の修行(禅を含む瞑想法)で感得しようとしているのは、「生命」(気)であり、これは生きているものを、生きたまま観ることでしか捉えられません。その眼を開くのが目的なのです。 

 野口晴哉先生は次のように述べています(『月刊全生』)。

・・・私の考え方もずっとやってきているうちに禅の本を読んだら「俺と同じような考え方があるなあ」とそう思って禅の本を興味をもって読みました。・・・その中でも『臨済録』は丁寧に生き物をみて来たと、そう今でも感心しています。

・・・私は人間の体を丁寧に見る以外のことはやっていない。人間の体を、心を含めた人間というものそのものを丁寧にみて来た、それだけなのです。

 

 

禅と精神分析―後科学の禅・野口整体 3

科学的客観の「見る」と禅的絶対主観の「観る」 

 今回、カテゴリー名に「後科学の禅」という言葉を使いました。これは第三部の題名で、鈴木大拙の「無意識」について述べた内容から取られたものです(『禅と精神分析』)。 

私の無意識とはmetascientificすなわち後科学的、或いはantescientific前科学と言えよう。・・・なるほど或る時期の間は科学もしくは概念的思考が人間研究の全領域を占めることがあろうが、しかし、禅の立場はそれから以後に展開するものである。

言い換えれば、ありとあらゆる人間活動の全領域における科学力の支配に我々が無条件で我々の身を委ねてしまう前に、〝ちょっと待て〟と禅は言う。〝もう一度お前自身を見直してみよ、物ごとは本来そのままで、それでいいのだ、ということがわからないのか〟と。

 哲学者の湯浅泰雄氏は、現代は科学技術が社会を変えていく時代で、学問研究の全体像を捉え、意味を明らかにする哲学はもはやないと指摘しました。

 そして哲学が力を失った原因は、様々な学問を統合する視点が理性のみにあったことによると述べています(『宗教と科学の間』)。

『「気」の身心一元論』が出版された時、西洋医学の基にある近代科学の問題を論じている点で「近代なんかもう終わっている」という批評をする人もいました。

 でも本当は、何十年も「近代を超えなければならない」と言われているだけで、その大元には近代科学(の思考の枠組み)があるのです。

 野口晴哉先生は身心という領域でそれに挑み、金井先生はその後を追い、鈴木大拙は、科学では掬い取れない「何か」の存在に気づいた後にやってくる方法として禅を説きました。これが「後科学の禅」です。

 金井先生が鈴木大拙『禅と精神分析』を初めて手にしたのは2006年のことです。ある医師が金井先生の指導を受け塾生になり、整体を学んでいた頃でした。

 当時収録した、金井先生とその医師の対話は未刊の中巻に収録されていますが、その中で医師は次のように述べています。

実際に金井先生の整体指導を受けてみて、一番感じるのは、体と心の感覚の芽生えが加速される感覚です。自分だけだと三、四ヶ月かかるところが一、二週で進んでしまう。これは凄い。

心の問題についても、自分で精神分析学を援用して何年もかけて自己分析した内容を初回の指導で指摘されました。人が何年もかけてやっと気がついたことをそんな簡単に言うなよぉ、と正直思いました(笑)。 

 こうしたやりとりがあって、その医師は『禅と精神分析』を金井先生に贈呈したのでした。

 この本は、一九五七年、アメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロム主催の「禅仏教と精神分析学の研究会議」における講演をまとめたものです。

 この章では、その中に収録されている、大拙氏が精神科医と心理学者(主にフロイト派分析家)に向けて行った「禅仏教に関する講演」を取り上げています(英語の講演を日本語に翻訳)。

 最初の主題は東洋の「見る」を松尾芭蕉の「よく見れば なずな花咲く垣根かな」という視点に代表させ、西洋の「見る」をテニスンの詩に代表させ論じています。

 テニスンの詩は簡単に言うと、咲いている小さな花を抜き、手に持って「お前のすべてを知り得たら、神と人との何たるかを私は知ることができるだろう」という感慨を表現したものです。

 テニスンは引っこ抜いて(枯れることなど気にしない)、花を分析的に「知ろう」とする、それが神を理解する態度なのですね。

 ここに西洋と東洋の違いがあると大拙氏は指摘し、次のように述べています。

芭蕉は〝受け取って行く〟が、テニスンは“対立”して行く。・・・彼はつねに自然から、神から離れて立っている。彼の〝知る〟ということは、今日の人々のいわゆる〝科学的客観〟の立場である。ところが芭蕉は、徹頭徹尾〝主観的〟といってよい。

・・・彼は感じという領域から出てきて、知性の世界に帰らねばならぬ。 

  別の本で、大拙氏は英語の「divide and rule」(相手の勢力を分割し、その間に闘争を起こさしめ、弱まる所を打ち屈服させる)を挙げ、この語が、西洋思想や文化の特性を非常に適切に表現していると述べています(『東洋的な見方』)。

 金井先生は、この西洋を代表するテニスンの態度を「野口整体の世界観(および身体に対する取り組み方)の対極に位置するものです。」と述べています。

 一方東洋では、本当に「観る」ということは、芭蕉が小さな「なずな」を見いだす時、なずなも芭蕉を見るのだと捉えます。これは芭蕉の命と、なずなの命が感応し、「出会った」ということです。

 これは中村雄二郎氏が「よく見ることは、視覚を中心とした諸感覚の協働(統一力)による知覚なのである」((『哲学の現在』))という、身心が統一された状態においての「見る」、共通感覚が働いている「見る」です。

 そして芭蕉が「見る」ことで、なずなと芭蕉はひとつになり、無意識だったなずなが、自分の存在に目覚めるというのです。

 今回はここまでにします。

仏教の心と整体―後科学の禅・野口整体 2②

無心の身体という東洋の自由

 

二元論における自由から一元論の自由

 番組の解説者は「西洋の自由は、政府からの自由、キリスト教からの自由など、総じて何々からの自由である。東洋の自由、禅の自由は、自(みずか)らに拠る。まさに自由という言葉そのもので、・・・そこに本来の自由がある」と、大拙氏が語った「自由」について説いていました。

② 個人指導における「体を整える」とは自己の中の霊性の自覚

 先の、番組解説者の言葉にある「自(みずか)らに拠るという自由」ということですが、私の立場から「これを妨げているのは何か」と言いますと、最近体験した「陰性感情」(これが潜在的に持続していることでの雑念)、また長年続いている、自分にとっても不都合な「感受性」というものです。

(人は感受性によって外界を認識している=自分の感覚によって、その感覚を眺めている世界。不都合な感受性とは、ユングの説いた「コンプレックス=自我の主体性を奪うもの」でもある)

 ・・・大拙氏の説く「禅の心」を、私の行なう整体指導の世界に置き換え、表現してみます。

 私の道場から(個人指導)の帰り途、熱海駅まで歩き、その時、晴れ晴れとした気持ちで景色を見ることができた人から、時折、お礼のメールや葉書を頂くことがあります。

・・・この(頭が抜ける)時、その人の心は「無心」となって帰ることができたのです。

(雑念に支配されて生きることは「世界と自分」という二元分裂の状態(自他分離)と言える。「景色と同じように心も晴々」とは世界(他)と自分(自)とが「自他一如」という一元の状態)

・・・本来の自分に戻る(自己発見に至る=自己の中の霊性を自覚する)一つの方法なのです。

(指導者が関与することで他動(他力)的ではあるが、自力なくして無心には至らず)

大拙氏は、それぞれの人が生きるにあたり、自らの霊性(ここでの霊性はすべてのものの根源)によって人とその世界、宇宙と大地の霊性と感応し合うことが大事だとしました。

 本来の自己に至り、改めて世界との新しい関係を構築し働く(整った体で初心に戻り生活する(ZENマインド ビギナーズ・マインド))ことが、野口整体の全生の道です。

(註)Zen mind,begginer’s mind(禅とは初心者の心)

 アメリカで曹洞禅を布教した鈴木俊隆師の著書(サンガ)。禅思想を伝えた鈴木大拙と、坐禅指導に尽力した鈴木俊隆は「二人の鈴木」と呼ばれともに著名。

病症と感情

 金井先生は、身体症状の多くは、滞った情動エネルギーを、熱や痛み、湿疹などの形で放散しようとして起り、病症を経過すると、感覚の鈍りや過敏が正常化に向かうと説きました。

 潜在意識化した情動に支配されている(本人の中ではそれが漠然としている)時、病症は起きるもので、いわば正気を取り戻すために病症が起きるのです。

(註)これは生命の建設的(立て直す)な働きとしての病症で、破壊の方向に向かう時との違いを観察することが肝要。また活元運動後の症状に対しても、身心が経過できる状態にあるかどうかを見きわめ、そのように導く整体指導が必要となる。

しかし、病症の前に起こった情動が続いている(偏りがとれない)と、経過が悪くなりますし、症状に不安を感じたり苛立ったり、早く治そうと焦ったりすると、自然治癒力の発動が十全でなくなり、経過が遅れます。

 生命の声である要求が、それを実現する運動系に素直に表れ、行動になっていく状態が自然であり、整体というもので、病症の時にも要求を感じ、それに従っていけば経過は順調なのです。

 ただ、要求が分からなくなったり、感じても行動にならなかったり、要求そのものが過剰だったり偏ってしまったり、という状態になりがちで、意識の発達した人間は放っておいたら裡の自然を保てないものです。

 人間には自然から離れないようにする「意識」と「身体行」が必要で、それを育む智慧が禅などの東洋宗教に伝わる瞑想法の伝統です。野口整体も、これを受け継いでいるのです。

 

仏教の心と整体―後科学の禅・野口整体 2①

鈴木大拙について

 今回から第二章の鈴木大拙著『禅と精神分析』を取り上げた内容に入るつもりでしたが、その前に、仏教が大切にしている「感情」と、第二章一にある金井先生の個人指導と禅についてお話したいと思います。

  2018年11月、チベット仏教指導者のダライ・ラマ法王14世が来日し、福岡の東長寺で被災者の追悼法要に参列しました。そこで、方法は日本人への助言として次のように述べています(法王庁HP)。

「物質的な発展だけに目を向けるのではなく、心や感情のはたらきにも目を向けることが大切です。

 身体の衛生に気をつけることによって健康を保てるように、感情の衛生に気をつけることによって健全な心を保つことができるのです。

 それには破壊的な感情(煩悩)にいかにして対処すべきかを学ぶことが役に立ちます。」

 来日中、法王は折あるごとに「感情の衛生(悪感情が免疫系を低下させる、お互いを引き離し孤立させるなど)」について語っています。これを読んだのはつい最近のことですが、金井先生が生きていたら、関心を持たれたかな・・・と思いました。

 第二章で取り上げる鈴木大拙は、禅の伝道者として、日本以上に海外で尊敬されている高名な人です。知らない人は、web検索すると資料が沢山出てきますから、読んでみてください(近年は批判的内容も出てきています)。著書も英文・和文ともに多く、『日本的霊性』(岩波書店)は有名です。

 鈴木大拙の功績は、禅を思想として西洋に伝えたことです。日本の禅では伝統的に「実践経験のない人が、分からないことを質問して説明を受ける」という教育はありませんでした。

 禅だけではなく他の多くの「道」がそれに準じた教え方で、野口先生存命の頃の整体も、それをやるのはおそらく外国人のみであったと思います。

 じゃあどうするんだろう?と思うかもしれませんが、「黙って言われたとおりにやる。」→「それを続けて分かるようになるまで待つ。」というのが一般的だったのです。

 それを思想として、実践はおろか宗教的基盤の違う西洋人に禅を解き明かすというのはかつてないことでした(師の釈宗演はそのパイオニア)。

 戦後すぐ、日本が国際的に敗戦国待遇だった時から、西洋では仏教などの東洋宗教に関する関心が高まりました。人間の歴史上、最も暴力的で非情な近代戦を経験したことによるのでしょう。

 そして鈴木大拙氏は1948年から、79才で戦前から続けていた活動を再開したのです。

 

 金井先生は第二章一で、鈴木大拙が出演したNHKの古い番組を見て、その視点から見た自身の個人指導をについて書いています。

 冒頭でダライ・ラマ法王は「悪感情が互いを引き離し孤立させる」と言っていますが、金井先生が、自然を乱すものとして焦点を当てたのも「感情」、それも潜在意識となって身心を支配する「意識できない感情」でした。

 大拙氏は番組で、西洋が禅に感じる魅力について、西洋の自由と東洋の自由を比較し東洋の自由は「おのずからによるということ。ものに束縛が何もない、そのものになって、本体になってはたらくということが自由」と述べました。

 ダライ・ラマ法王の言う「感情の衛生」にもつながる内容ですので、中略を入れましたが、次回は②としてこれを紹介したいと思います。

 

 

 

野口整体と「無心」―後科学の禅・野口整体 1

「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体

  今日から、未刊の本の上巻第三部 後科学の禅・野口整体 に入ろうと思います。

 ここでは鈴木大拙の禅思想が大きく取り上げられ、野口整体との共通性について述べられています。

 この際、正直に言うと、私は釈宗演(大拙の禅師)師を取り上げた第三部の後半は整体とのつながりが分り難いのではないかと思い、生前、金井先生にもそう言ったことがあります。オイゲン・ヘリゲルの取り上げ方や鈴木大拙の引用についても、やり過ぎ感を持ちました。

 でも、もう一度読み返し、ブログを書きながら私も勉強し直そうと思いました。なぜかというと、本の編集上という枠の中では、今もそう思わなくはないのですが、金井先生の野口整体が、どれほどの広さと深さを持つものなのかを再認識したいと思ったからです。

 それでは、第一章「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体 から入ります。第一章では、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』(『弓と禅』)大きく取り上げられています。

これは日本よりも海外でよく知られている本で、ドイツ人の哲学教授が明治期の日本で弓道修行を行った時の体験が述べられています。

 近代合理主義のドイツ人が、弓道を通じて禅を体得していく過程については『日本の弓術』を読んで頂くとして、ヘリゲルは来日当時の日本人について、次のように述べています(『日本の弓術』)。

・・・日本人は、自分でそれを説明できるかどうかは別として、禅の雰囲気、禅の精神の中で生活している。それゆえ日本人にとっては、禅と関連することはすべて、内面から、禅の本源から、明瞭に理解される。

・・・日本人は禅のもっとも深い本質の中に成長していて、身に着いたものを頼りにして考えるからである(金井・禅は「身体性」を高度にし、そのため直感がはたらくことを意味する)。 

 金井先生はこの文章を引用し、

「このような生活の基盤を成していたのが「坐」の生活でした。

・・・坐により心が鎮まっていることで、高い「身体感覚」が生じ、その身体感覚を保持して生活するというのが、ヘリゲルの言う「禅の精神の中で生活している」ということであったと思います。」

と述べています。

 しかし、ヘリゲルが見たのは、古き良き日本人の最後の姿というべきものでした。

 ヘリゲル帰国二年後の一九三一年(昭和六年)、野口先生は「正しく座すべし」(『野口晴哉著作全集第一巻』)の中で、「物質文明上、西洋を追及すること急にして、知らず識らず精神的文明上、固有の美を失いつつあり。」と警告しています(リンク先に全文掲載)。

 軍事教練での「直立不動」の姿勢の影響で、今でも姿勢良くというと、胸を張ってしまう人がいますが、金井先生は「この姿勢は思考を停止させてしまう」と言っています。

 軍国主義下の軍事教練は、日本人の身心から主体性を奪い、「命令」を待つのみの近代的身体へと作り替えていきました。

 これは武士の「自然体」のように、上体の筋肉を脱力させ、背骨を立てお腹と腰の力で立つのではなく、筋肉に力を入れ身体の外側を鎧のように緊張させるという「不自然体」であり、上辺だけ西洋の真似をしている身体なのです。

 そして、金井先生は未刊の上巻で、ヘリゲル著『日本の弓術』を取り上げた第三部第一章について次のように述べています。

 この内容は、むしろ現代の日本人、それは敗戦後七十年に亘り伝統文化を切り捨て、かつ科学教育のみに育った(=西洋化した)人々にとってこそ、きわめて意義あるものと確信し、「無心」を主題とする禅的な日本の精神修養の道筋、野口整体を思想として著した ―― しかし「体と心」についての思想は、論理だけでは理解できない、それは身体性でこそ理解できるという ―― 本書の括りとなる第三部の第一章に活用した次第です。 

 ヘリゲルは西洋人ですが、今や日本人が野口整体の道に入る時にも同じ戸惑いや壁に突き当たる時代です。しかし日本人の場合は、伝統文化の基盤が身の内にないことが判らず、日本人であるというだけで分かるような気になってしまいがちなのです。

・・・やっぱり勉強しなければ、と反省しました。