野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅と精神分析―後科学の禅・野口整体 3

科学的客観の「見る」と禅的絶対主観の「観る」 

 今回、カテゴリー名に「後科学の禅」という言葉を使いました。これは第三部の題名で、鈴木大拙の「無意識」について述べた内容から取られたものです(『禅と精神分析』)。 

私の無意識とはmetascientificすなわち後科学的、或いはantescientific前科学と言えよう。・・・なるほど或る時期の間は科学もしくは概念的思考が人間研究の全領域を占めることがあろうが、しかし、禅の立場はそれから以後に展開するものである。

言い換えれば、ありとあらゆる人間活動の全領域における科学力の支配に我々が無条件で我々の身を委ねてしまう前に、〝ちょっと待て〟と禅は言う。〝もう一度お前自身を見直してみよ、物ごとは本来そのままで、それでいいのだ、ということがわからないのか〟と。

 哲学者の湯浅泰雄氏は、現代は科学技術が社会を変えていく時代で、学問研究の全体像を捉え、意味を明らかにする哲学はもはやないと指摘しました。

 そして哲学が力を失った原因は、様々な学問を統合する視点が理性のみにあったことによると述べています(『宗教と科学の間』)。

『「気」の身心一元論』が出版された時、西洋医学の基にある近代科学の問題を論じている点で「近代なんかもう終わっている」という批評をする人もいました。

 でも本当は、何十年も「近代を超えなければならない」と言われているだけで、その大元には近代科学(の思考の枠組み)があるのです。

 野口晴哉先生は身心という領域でそれに挑み、金井先生はその後を追い、鈴木大拙は、科学では掬い取れない「何か」の存在に気づいた後にやってくる方法として禅を説きました。これが「後科学の禅」です。

 金井先生が鈴木大拙『禅と精神分析』を初めて手にしたのは2006年のことです。ある医師が金井先生の指導を受け塾生になり、整体を学んでいた頃でした。

 当時収録した、金井先生とその医師の対話は未刊の中巻に収録されていますが、その中で医師は次のように述べています。

実際に金井先生の整体指導を受けてみて、一番感じるのは、体と心の感覚の芽生えが加速される感覚です。自分だけだと三、四ヶ月かかるところが一、二週で進んでしまう。これは凄い。

心の問題についても、自分で精神分析学を援用して何年もかけて自己分析した内容を初回の指導で指摘されました。人が何年もかけてやっと気がついたことをそんな簡単に言うなよぉ、と正直思いました(笑)。 

 こうしたやりとりがあって、その医師は『禅と精神分析』を金井先生に贈呈したのでした。

 この本は、一九五七年、アメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロム主催の「禅仏教と精神分析学の研究会議」における講演をまとめたものです。

 この章では、その中に収録されている、大拙氏が精神科医と心理学者(主にフロイト派分析家)に向けて行った「禅仏教に関する講演」を取り上げています(英語の講演を日本語に翻訳)。

 最初の主題は東洋の「見る」を松尾芭蕉の「よく見れば なずな花咲く垣根かな」という視点に代表させ、西洋の「見る」をテニスンの詩に代表させ論じています。

 テニスンの詩は簡単に言うと、咲いている小さな花を抜き、手に持って「お前のすべてを知り得たら、神と人との何たるかを私は知ることができるだろう」という感慨を表現したものです。

 テニスンは引っこ抜いて(枯れることなど気にしない)、花を分析的に「知ろう」とする、それが神を理解する態度なのですね。

 ここに西洋と東洋の違いがあると大拙氏は指摘し、次のように述べています。

芭蕉は〝受け取って行く〟が、テニスンは“対立”して行く。・・・彼はつねに自然から、神から離れて立っている。彼の〝知る〟ということは、今日の人々のいわゆる〝科学的客観〟の立場である。ところが芭蕉は、徹頭徹尾〝主観的〟といってよい。

・・・彼は感じという領域から出てきて、知性の世界に帰らねばならぬ。 

  別の本で、大拙氏は英語の「divide and rule」(相手の勢力を分割し、その間に闘争を起こさしめ、弱まる所を打ち屈服させる)を挙げ、この語が、西洋思想や文化の特性を非常に適切に表現していると述べています(『東洋的な見方』)。

 金井先生は、この西洋を代表するテニスンの態度を「野口整体の世界観(および身体に対する取り組み方)の対極に位置するものです。」と述べています。

 一方東洋では、本当に「観る」ということは、芭蕉が小さな「なずな」を見いだす時、なずなも芭蕉を見るのだと捉えます。これは芭蕉の命と、なずなの命が感応し、「出会った」ということです。

 これは中村雄二郎氏が「よく見ることは、視覚を中心とした諸感覚の協働(統一力)による知覚なのである」((『哲学の現在』))という、身心が統一された状態においての「見る」、共通感覚が働いている「見る」です。

 そして芭蕉が「見る」ことで、なずなと芭蕉はひとつになり、無意識だったなずなが、自分の存在に目覚めるというのです。

 今回はここまでにします。