野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

仏教の心と整体―後科学の禅・野口整体 2②

無心の身体という東洋の自由

 

二元論における自由から一元論の自由

 番組の解説者は「西洋の自由は、政府からの自由、キリスト教からの自由など、総じて何々からの自由である。東洋の自由、禅の自由は、自(みずか)らに拠る。まさに自由という言葉そのもので、・・・そこに本来の自由がある」と、大拙氏が語った「自由」について説いていました。

② 個人指導における「体を整える」とは自己の中の霊性の自覚

 先の、番組解説者の言葉にある「自(みずか)らに拠るという自由」ということですが、私の立場から「これを妨げているのは何か」と言いますと、最近体験した「陰性感情」(これが潜在的に持続していることでの雑念)、また長年続いている、自分にとっても不都合な「感受性」というものです。

(人は感受性によって外界を認識している=自分の感覚によって、その感覚を眺めている世界。不都合な感受性とは、ユングの説いた「コンプレックス=自我の主体性を奪うもの」でもある)

 ・・・大拙氏の説く「禅の心」を、私の行なう整体指導の世界に置き換え、表現してみます。

 私の道場から(個人指導)の帰り途、熱海駅まで歩き、その時、晴れ晴れとした気持ちで景色を見ることができた人から、時折、お礼のメールや葉書を頂くことがあります。

・・・この(頭が抜ける)時、その人の心は「無心」となって帰ることができたのです。

(雑念に支配されて生きることは「世界と自分」という二元分裂の状態(自他分離)と言える。「景色と同じように心も晴々」とは世界(他)と自分(自)とが「自他一如」という一元の状態)

・・・本来の自分に戻る(自己発見に至る=自己の中の霊性を自覚する)一つの方法なのです。

(指導者が関与することで他動(他力)的ではあるが、自力なくして無心には至らず)

大拙氏は、それぞれの人が生きるにあたり、自らの霊性(ここでの霊性はすべてのものの根源)によって人とその世界、宇宙と大地の霊性と感応し合うことが大事だとしました。

 本来の自己に至り、改めて世界との新しい関係を構築し働く(整った体で初心に戻り生活する(ZENマインド ビギナーズ・マインド))ことが、野口整体の全生の道です。

(註)Zen mind,begginer’s mind(禅とは初心者の心)

 アメリカで曹洞禅を布教した鈴木俊隆師の著書(サンガ)。禅思想を伝えた鈴木大拙と、坐禅指導に尽力した鈴木俊隆は「二人の鈴木」と呼ばれともに著名。

病症と感情

 金井先生は、身体症状の多くは、滞った情動エネルギーを、熱や痛み、湿疹などの形で放散しようとして起り、病症を経過すると、感覚の鈍りや過敏が正常化に向かうと説きました。

 潜在意識化した情動に支配されている(本人の中ではそれが漠然としている)時、病症は起きるもので、いわば正気を取り戻すために病症が起きるのです。

(註)これは生命の建設的(立て直す)な働きとしての病症で、破壊の方向に向かう時との違いを観察することが肝要。また活元運動後の症状に対しても、身心が経過できる状態にあるかどうかを見きわめ、そのように導く整体指導が必要となる。

しかし、病症の前に起こった情動が続いている(偏りがとれない)と、経過が悪くなりますし、症状に不安を感じたり苛立ったり、早く治そうと焦ったりすると、自然治癒力の発動が十全でなくなり、経過が遅れます。

 生命の声である要求が、それを実現する運動系に素直に表れ、行動になっていく状態が自然であり、整体というもので、病症の時にも要求を感じ、それに従っていけば経過は順調なのです。

 ただ、要求が分からなくなったり、感じても行動にならなかったり、要求そのものが過剰だったり偏ってしまったり、という状態になりがちで、意識の発達した人間は放っておいたら裡の自然を保てないものです。

 人間には自然から離れないようにする「意識」と「身体行」が必要で、それを育む智慧が禅などの東洋宗教に伝わる瞑想法の伝統です。野口整体も、これを受け継いでいるのです。