野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 二 日本の禅文化「道」の特質 1

二 日本の禅文化「道」の特質

 今回から二に入ります。ヘリゲルの本はヨーロッパの読者を対象としているので、日本における術(道)とは何を目的としているかという哲学的テーマから始まります。

 それにしても、当時のヨーロッパ人がこのように理解していたということに改めて驚かされます。ヘリゲルの師、阿波研造は精神性をことに重んじた人ではあったようですが、むしろ日本人はここまで明確に目的を理解していない人も多かったでしょう。それでは内容に入ります。

1 道とは、自分自身を相手にして内的に…

 ヘリゲルは日本の「道」を、次のように表しています(『新訳 弓と禅』「弓と禅」Ⅰ.はじめに)。

弓道とは何か

…日本人は弓道の「道」を、主として肉体的な練習によって多少なりとも習得できるスポーツ的な能力ではなく、その根源を精神的な修錬に求め、その目標は精神的に射中(あ)てることにあると理解している。それゆえ、射手は根本では自己自身を狙い、そして自己自身に射中てることをおそらく達成するのである。

…伝承されていた弓の技術は、武器としての役割を果たさなくなって以来、楽しい趣味になったというのではない。弓道の「大いなる教え(大射道教のこと(註))」は、もっと別のことを語っている。

 それによれば、弓道は相変わらず生死を懸ける重要事であるが、それは射手の自己自身との対決であるという意味であり、対決のその意味は、退化した代償なのではなく、外へと向けられた全ての対決―たとえば生きた敵との対決―を担っている根底なのである。射手の自己自身とのこの対決において、弓道の隠された本質が初めて示されるのである。

…その時、最も偉大にして究極のものが姿を現わす。術は術なきものとなり、射ることは射ないことになり、弓と矢なくして射ることになり、師匠は再び弟子となり、達人は初心者になり、終わりは始まりになり、始まりは完成になるからである。

 極東〔日本〕の人にとって、このような不思議な定式は、透徹したものであり、よく知られているものである。これに対して、我々ヨーロッパ人にとっては、疑いようもなく全くの謎である。それゆえに、さらに一歩進めるよりほかはないであろう。

(註)大射道教

 1920年のある夜更け、阿波研造師は月光が照らす的前に独り立った。肉体も滅びよと射続けた果てに、自己が粉みじんに爆発する感覚に襲われる。弦音高く放たれた矢は、幾千里のかなたに走ったかと思われた。弓によって宇宙と自己が合一する神秘体験を経て、1923年、阿波師は禅に根幹をおく弓道の新団体「大射道教」を旗揚げする。

「弓を引いている瞬間の我は、宇宙と一体をなすべきものであること、…一射絶命の境地に到達しなければならないこと、射がすなわち禅的生活である」と、阿波師は説いた。

 禅と深く関係している日本的な弓術を、禅の予備門として始めることを考えたヘリゲルは、「永年小銃と拳銃の射撃を稽古したことが弓術の稽古にも役立つだろう」と思ったのですが、彼は「その予想がまったく誤りだったことは後になって分かった。」、そして「私たちが最初の時間に学ぶべきことは、無術の術に到る道は容易ではないということであった。」と、振り返っています(『日本の弓術』二)。

 ヘリゲルは、「弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に深いのである。あるいは、日本の弓術の先生方の間でよく通じる言葉を用いて言うならば、弓を射る時には「不動の中心」となることに一切が懸かっている。(『日本の弓術』一)」と述べ、次のように続けています。

 日本のあらゆる術(道)は、その内面的形式から言えば一本の共通な根元たる仏教に溯らなければならないということは、われわれヨーロッパ人にとっても、すでに久しい以前からなんの秘密でもなくなっている。これが弓術(道)についても言いうることは、墨絵、茶の湯、歌舞伎、生け花、剣術その他もろもろの術(道)と同様である。

…ここで言う仏教とは、その文献が一見わけなく手に入るところから、実を言えばヨーロッパ人だけが知っている、あるいは知っていると思い込んでいる、かの思弁的な仏教(ヨーロッパの仏教学研究で理解された仏教)ではなくて日本で「禅」と呼ばれている思弁的でない仏教である。

 これは何をおいてもまず思弁を志すものではなく、実践、したがって沈思の実践を志すものであり、それゆえに、思想的に詳述されたそれに関する知識にはあまり価値を与えず、その中で行われる生活に挫かれない力を得させようとするものである。

…弓術(道)の基をなしている精神的修練は、これを正しく解するならば、神秘的修練であり、したがって弓術(道)は、弓と矢をもって外的に何事かを行おうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。

 それゆえ、弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託(他の物事を借りること)に過ぎない。目的に至る道であって、目的そのものではない。この道の通じるべき目的そのものは、簡単に言ってしまえば神秘的合一(ウーニオミスチカ)、神性との一致、仏陀の発現である。

 

謹賀新年 明けましておめでとうございます

先づ動くことだ

形無くも 動けば形あるものを動かし 動かされている形あるものを見て 動いているものを 感ずるに至る

動きを感ずれば共感していよいよ動き 天地にある穴 皆声を発す

竹も戸板も水も 音をたてて動くことを後援する 土も舞い 木も飛ぶ 家もゆらぐ 電線まで音を出して共感する

――天地一つの風に包まる

 

先づ動くことだ

隣りのものを動かすことだ

隣りが動かなければ先隣りを動かすことだ

それが動かなければ 次々と 動くものを多くしてゆく

裡に動いてゆくものの消滅しないかぎり 動きは無限に大きくなってゆく これが風だ

誰の裡にも風を起す力はある

動かないものを見て 動かせないと思ってはいけない 裡に動くものあれば 必ず外に現われ 現われたものは 必ず動きを発する

 自分自身 動き出すことが その第一歩だ

野口晴哉『碧巌ところどころ』

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第三部 第一章 一3 ヘリゲルの禅の予備門としての弓道修行

 今回は今年最後の記事です。皆さん良いお年を。

3 ヘリゲルの禅の予備門としての弓道修行

 ヘリゲルは、教師として日本に滞在する機会を得たことを奇貨(思わぬ利益を得られそうな機会)とし、当初、日本文化の真髄・坐禅を体験することを望みました。

 しかし西洋人であるが故、入門への関門「不立文字・教外別伝」が突破できず、周りの人々の、「坐禅に取り組むより、日本のいろいろな術(道)の何かを習う方が良い(稽古事は、ある程度仏教の精神を分かち持っている)」という助言に従うことにしました。彼はその時のことを、次のように述べています。(『新訳 弓と禅』弓と禅 Ⅱ.弓道を学び始めた経緯)

禅の予備門としての弓道修行

私は〔日本に着いて〕新しい環境に何とか慣れるとすぐに、私の宿願を実現しようと心を配った。しかしながら、さしあたって困惑するような忠告を受けた。

これまでヨーロッパ人はまだ誰一人、禅について真面目に努めていなかったし、禅自体は〔教外別伝として〕「教え」のほんのわずかな名残りすらも拒むものであるから、禅が私を「理論的に」満足させるなどと期待することはできない(註)だろうと言われた。

…そこで、人々が教えてくれたのは、ヨーロッパ人にとって、彼らとは最も遠い極東の精神生活の領域に入り込むことは望みがないことである、ただし、禅と関係している日本の「道(どう)」を学ぶことから始めるなら別であるが、ということだった。

一種の予備門を修するという考えは、私をひるませなかった。禅に少しでも近づけるという希望があるのであれば、どのような譲歩も厭(いと)わなかった。それ自体、苦労が多い回り途だったとしても、全く途がないよりもはるかに良いように思われた。この目的のために名前を挙げられた諸道の中から、どの道(みち)に私は専念すべきであるのか?

(註)教外別伝

 仏教の真髄(禅)は、文字や言葉では伝えることができず、心から心へと直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味。ゆえに教外別伝とは、えのえがあるのではなく、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。また、師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない、とするのが「教外別伝」の内容である。

 弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていき、何事も自分の努力(実践)で体得して、初めて自分のものとすることができる。そして、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるもので、文字や言葉では、究極のところは伝わらない。

 ヘリゲルの禅入門への渇望は達せられず、来日からここまで二年近くの時を費やしましたが、助言により、分かりやすい術(道)に取り組むことになりました。そこで、彼の妻が生け花(華道)と墨絵(日本画)を習うことにした(註)ことから、日本文化の体験が始まったのです。それは、ヘリゲルには、妻が受けていた生け花と墨絵の稽古に聴講生として同席するという機会が与えられたのでした。

(註)妻とは、来日の翌(1925)年9月に再婚したアウグスティ(グスティ)。来日時には、身重の妻バロネッセが一緒であったが、三ヶ月後(8月8日)に死産をし、五日後に彼女自身も亡くなった(『新訳 弓と禅』解説による)。妻グスティが生け花と墨絵を武田朴陽(ぼくよう)に習ったのは、東北帝国大学に先に勤めていたドイツ人教師・モーリス・パンゲの紹介であったようである(『新訳 弓と禅』)。

 そして、生け花の先生(武田朴陽氏)が弓道阿波研造1880年生)氏と親交があり、折に触れ、阿波師の言葉を引用した ―― 華道と弓道は共に禅の精神を元とし、相通ずるものがある ―― ことから、弓道を志すに至ったようです。

 ヘリゲルは1926(大正15)年春頃、「滞在中に、日本の文化を出来るだけ正確に豊富に理解したい」という願望を、同僚の小町谷操三氏に打ち明け、旧制第二高等学校(現在の東北大学の前身)時代、阿波師に弓術を習っていた小町谷氏に、入門願いの仲介と、稽古時の通訳を頼みました(小町谷氏が東京帝大卒業後、教授として東北帝大に赴任した時、阿波師は東北帝大弓術部の師範であった)。

 小町谷氏はさっそく阿波師を訪ね、ヘリゲルの希望を伝えましたが、師は「今までに幾人かの外国人から頼まれて教えて見たが、いずれも失敗したから、失礼だけれどもお断りする」と、氏からの申し出を一言の下にはねつけた(即座に断った)のです。

 阿波師は、弟子が外国人であるがゆえに、「禅の精神を繰り返して説くことをしない」という譲歩を、二度としたくないという強い思いでした。

 しかし小町谷氏は、ヘリゲルの日本精神理解への切なる気持ちを伝えることで、阿波師からの入門許諾を得ることができました。

 この時、阿波師は彼を教えるに当たり、小町谷氏に「責任を持って通訳するよう」命じました。そして、奇特な哲学者ヘリゲルへの敬意を「報酬無用」で表しましたが、この日本的な礼儀の表し方に対し、ヘリゲルははなはだ当惑したようです。

 阿波師が謝礼を受け取らなかったのは、哲学者である外国人が「弓道精神」を理解しようとすることは、阿波師の「衷心からの欣快(心の底からの非常に嬉しい思い)」であったからです。

 それで、ヘリゲル夫妻の稽古日には、日本人の弟子には遠慮してもらうという個人指導ぶりで、彼らの指導に臨んだのです(『日本の弓術』・『新訳 弓と禅』)。

 こうしてヘリゲルは、禅の精神に到達するための手段として、毎週一回、妻と小町谷氏の三人で、弓道に取り組むことになりました。

※ブログ更新は1月7日から再開します。本年はありがとうございました。来年も宜しくお願いいたします。(近藤)

第三部第一章 一2 神秘へと至る途を求めていたヘリゲル

 英語で密教のことをEsoteric Buddism(秘教的な仏教)と言いますが、これは仏と人間が一体となることを目指す仏教、という意味です。そういう意味では、密教だけでなく禅もEsoteric Buddismと言うことができるのです。

 実はキリスト教にもEsoteric(エソテリック・神秘主義的な)なキリスト教(神との合一を目指す)というのがあって、ヘリゲルが研究したマイスター・エックハルトもエソテリックなキリスト教を実践した一人です。しかし西洋では、近代以前まで異端とされてきました。

 しかし、ヘリゲルの学生時代頃から第二次世界大戦までというのは、エソテリックなキリスト教に対する関心が非常に強まった時代でもあったのです。

 ちなみにアメリカやヨーロッパでは、今かつてないほどキリスト教を信じていない人の割合が増えているそうですが、これは近代に入ってからずっと続いている傾向です。

 それでは今回の内容に入ります。

2 神秘へと至る途を求めていたヘリゲル

 ヘリゲルは、ハイデルベルク(スイスと接するドイツ最南西部バーデン=ヴュルテンベルク州北西部の都市)大学で当初は神学部に属し、中世のドイツ神秘主義のマイスター・エックハルト(1260年頃生 ドイツ)(註)を研究していました。

エックハルトの思想は次のようなものです。

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」

 このような汎神論的(万物に神が宿っている、またその全体性が神であるとし、神と世界が本質的に同一であるとする)思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなりました。

(註)神秘主義 宗教や哲学において絶対者(神・最高実在・宇宙の根本原理など)を自らのうちで直接体験し、自己との合一を求める立場。エックハルトは、人間は我性から徹底的に脱却し、極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら、創造の以前より存在する魂の火花が働き、 魂の根底に神の子の誕生が起こる(神の子として転生する)とし、「神との合一」を、そして神性の無を説いた。

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば、教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまうからである。

 しかし、彼はこのキリスト教神秘主義に傾倒しながらも、これを完全に理解するには自身に何かが欠けており、それは、どうしても現れて来そうになく、その解決の道を見出し得なかったのです。「神との合一」という、その肝心の部分を実感できず、限界を感じて哲学に転じたのでした。

 彼はその当時のことを、次のように述べています(『新訳 弓と禅』弓と禅 Ⅱ.弓道を学び始めた経緯)。

神秘主義研究から禅への関心

 私は学生時代からすでに、不思議な衝動に駆られて、神秘主義を熱心に研究していた。そのような関心がほとんどない時代の風潮にもかかわらずに。

 しかし、いろいろ努力を尽くしても、私は神秘主義の文献を外から取り組むよりほかなく、神秘主義の原現象と呼ばれていることの周りを回っているだけであることを意識し、あたかも秘密を包んでいる周りの高い壁を越えて入ることができないということを、次第に悟るようになった。

 神秘主義についての膨大な文献においてすら、私が追及しているものを見出せず、次第に失望して、落胆して、真に離脱した者のみが、「離脱」ということが何を意味するかを理解できるのであり、自己自身から完全に解かれて、無になって抜け出た者のみが、「神以上の神」と一つになる準備ができるようになれるのだろうという洞察に達したのであった。

 それゆえ、私は、自らが経験すること、苦しみを味わい尽くすこと〔修行〕以外には、神秘主義に至る途はないこと、この前提が欠けている場合には、神秘主義についてのあらゆる言明は、単なる言葉のあげつらいにすぎないということを悟ったのである。

 しかし、人はいかにして神秘主義者になれるのか。どうしたら単にそう思うだけでなく、離脱という状態に実際になれるのだろうか。偉大な達人〔マイスター〕たちと何世紀も隔たって離れてしまった者にとっても、全く違った諸関係の下で育ってきた現代人にとっても、神秘主義へ至る途がなお存在するのであろうか。

神秘主義的な経験は、人間がどんなに思い願っても、こちらへもたらされえないということではないのか。いかにして、それに手掛かりをつけようか。私は自らが閉ざされた戸の前に立っていることに気づいたが、繰り返し戸を揺さぶることをやめることもできなかった。しかし憧れは残っていた。うんざりしてはいたが、この憧れに対する強い思いはあったのである。

 当時、私講師(教授を目指す研究者。国からではなく、学生から聴講料を貰って講義を行うドイツの大学独特の制度)であったヘリゲルは、日本人留学生の家庭教師をしたり面倒を見たりしていましたが、1921年ハイデルベルク大学に留学した大峡秀英― 鎌倉円覚寺に参禅し、釈宗演の弟子・釈宗括より居士の印可を得ていた ―により、禅仏教の存在を初めて知ることになりました。

「神秘」に至る最後の門の前に立ちながら、その門を開くべき鍵を持っていないと感じていたヘリゲルは、日本ではまさに自己からの離脱を眼目とする修行法の伝統が、現代まで受け継がれていることに驚き、「禅の国」日本に対する憧れを抱いたのです。

 そんな中、東北帝国大学哲学講師の話があり、ヘリゲルは生きた仏教 ―「沈思の実践」と神秘説 ― に触れることを願い、日本からの招聘を喜んで受け入れたのでした。

「神との合一」に至る道は西洋では見出せないと、強く感じていたヘリゲルは、日本への訪問という機会を得、東北の地・仙台にたどり着いたのです。

参考資料 野口整体を生きる

 野口晴哉の孫にあたる方による、生き方としての野口整体についての記事がありますので、ぜひ読んでみてください。今、この時代に整体を生きるとはどういうことかを考えるきっかけになるのではと思います。

hagamag.com

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第三部 第一章 「無心」を主題とする禅的な精神修養の道筋・野口整体 一1

 今日から第一章に入ります。中心となっているのは、Apple社を創業したスティーブ・ジョブスの愛読書としても有名な、ドイツの哲学者ヘリゲルの著書です。私は、西洋の師弟関係は対話によってなされるということをこの本を通じて知りました。

 そして海外の、それも西洋文化圏の人の方が、禅的なものの観方や世界観を自身が生きる上での糧としている人が多いというのは、日本人として残念なことだと思います。

 それでは今回の内容に入ります。

一「神との合一」へと至る道・日本の禅文化「道」― ドイツ人が伝えた「日本人の精神性」

1 オイゲン・ヘリゲルとその著『日本の弓術』

 1924(大正13)年、ドイツの哲学者(新カント派)オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)は、東北帝国大学の招聘に応じ、哲学講師として来日し、仙台に居住しました。

そして、妻と共に、東北帝国大学弓術部師範であった弓聖・阿波研造(1880~1939年)を師として、弓道修行への「弟子入り」をしたのです。

 滞在した1924年5月から仙台を離れる1929(昭和4)年8月(註)までの間、彼は、日本人と西洋人のものの考え方の違いに突きあたり、また1926(大正15)年春からは、弓道の元にある「禅の精神」の理解に戸惑いながらも、帰国する頃には、師より免許皆伝・五段の免状を受けるまでに至ったのです。

(註)ヘリゲルの日本滞在期間の終わり月が資料によってまちまちであるが、ここでは『日本の弓術』(柴田治三郎訳 岩波書店1982年)の、新版への訳者後記「1929年(昭和4年)8月東北帝大を辞して仙台を離れ、12月帰国する…」に基づく。

 本章三 4で引用する『弓と禅』の訳者・稲富栄次郎氏の回顧録では、昭和4年の七月に帰国と述べている。

 ドイツに帰国後の1936(昭和11)年2月25日、ヘリゲルはその体験を元に、「騎士的な弓術」と題してベルリン独日協会で講演を行いました(彼は「術」に該当するドイツ語を、道の意味で使った)。

 そして同年、その原稿の日本語訳が雑誌『文化』に掲載され、その後、それに弓道修行の通訳をした小町谷操三氏(1893~1979年 東北帝大法学教授)の回想録を付して出版されたのが『日本の弓術』(柴田治三郎訳 岩波書店 1941年初版)です。

 その後1948年には、彼が講演の原稿(「騎士的な弓術」)を書き改めた『弓術における禅』がドイツで出版されました(この年ヘリゲルは、帰国直後から勤めて来たエルランゲン大学を退き隠棲する)。

 日本では、この本がヘリゲルの東北帝大での教え子二人によって翻訳され『弓と禅』(稲富栄次郎・上田武訳 福村出版 1959年初版)が出版されました。

 この英訳本『Zen in the Art of Archery』は、スティーブ・ジョブズ(アップル社共同設立者の一人 1955~2011年 アメリカ)が愛読したことで知られています。

 この本の序言で、ヘリゲルは「弓道と“禅”との間に存在する密接なつながりを明らかにすることが、私の講演の眼目であった。」と述べ、日本の「道」が禅文化であることを強調しています。

 そして、2015年12月には、『日本の弓術』と『弓と禅』を一冊とした『新訳 弓と禅』(魚住孝至 訳・解説 角川書店)が刊行されました。

 本章は、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』と『新訳 弓と禅』(福村出版版『弓と禅』は一部使用)を元に、現代ではその多くが失われた、伝統的な「日本人の精神性(身体性)」を伝えようとするものです(『日本の弓術』の内容は『新訳 弓と禅』にも含まれていますが、これについては岩波文庫版を使い、『新訳 弓と禅』収録の同内容については、訳注(五一頁~五四頁)のみを使用)。

 これらの著作には、西洋人、また論理主義者でなければ、弓道の師とこのようなやりとりをし、また記述することはできない内容が、いかにもドイツ人らしく精密に記されています。しかし、この「論理的な思考と方法論」が、弓道の師の禅の教えによってことごとく否定され、打ち負かされ、ついには、言語と論理の限界を突き抜けていく過程が著されています。

『Zen in the Art of Archery』は、西洋に「禅とは何か」を伝えるものとして浸透していますが、ヘリゲルが著したこの内容は、敗戦後七十年に亘り伝統文化を切り捨て、かつ科学教育のみに育った(=西洋化した)現代の日本人にとっても、きわめて意義あるものと確信し、これを用いて本章を編み、本書(上巻Ⅰ・Ⅱ)内容理解の一助としたいと思います。

第三部 後科学の禅・野口整体  第三部で紹介する三氏と「禅思想」

 今回から第三部に入ります。以前紹介した内容もあるのですが、改めて全文を掲載することにしました。

野口整体は禅である」というのは、私が塾生になるかなり前から金井先生が言っていたことです。しかし「理解できる人はなかなかいない」とも言っていました。禅と言うと、みなあの面壁九年というような、坐禅をすることだけを連想するのですが、禅の世界観、禅的なものの観方は、日本の衣食住、芸事や術などの文化の中にも生きています。

 そして、金井先生は、野口整体を現代に説く上で、鈴木大拙が善を海外に向って説く上で取った手法に関心を持つようになりました。そうした関心が元になり、この章ができたのです。

 では内容に入っていきましょう。 

第三部で紹介する三氏と「禅思想」

 第三部は、第二章の鈴木大拙氏(1870~1966年)による「東洋と西洋のものの考え方の相違から禅を説く」という視点を主として、「野口整体の道を考える」ものとなっています。

 東西の相違を知る上で重要なのが第一章です。ここで取り上げるドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)は、西洋で失われた「内なる霊性の自覚」へ至る道(神秘主義)を求めて日本の禅に関心を持ち、1924(大正13)年、東北帝国大学・哲学講師として仙台に赴任しました。

 そして、禅に少しでも近づけるならばと、弓道修行を行いました。また、ちょうどヘリゲル滞日中に出版された、英語による鈴木大拙著『禅論文集』(1927年)にも大きな影響を受けました。

 鈴木大拙氏は、近代科学と理性の限界を見据え、これを超える智としての「禅思想」を欧米に向けて初めて説いた人です。

  禅は本来、言葉や文字に信頼を置かず、坐禅などの修行を通じて、言葉を超えた本質へと直接的接近を試みようとするものです。それは、宗教行為の中で最も大切な、自己の中の「霊性の自覚」や「悟り」だけに価値を置くという、例外的な宗教なのです。

 言葉や文字に信頼を置かないというその特質により、伝統的な禅は、「思想」というものを断固と拒絶してきました。しかし12年に及ぶ米欧での生活を体験した大拙氏は、「世界的見地において、禅にしっかりした思想がなくてはならない」と考え、禅は大拙氏によって、初めて思想の衣を帯びることになりました。

 これは、禅を西洋に伝えるという氏の使命感、および情熱がなしえた偉業と言えるでしょう。ここに大拙氏の新しさ、氏が切り拓いた禅の新境地があるのです。

 ヘリゲルが日本での弓道修行を基に著した『弓術における禅』は、第二次大戦後の1948年ドイツで出版され、西洋に「禅とは何か」を伝える書として浸透していきました。そして、大拙氏とヘリゲルの著作は禅の指南書となり、1960年代、米欧で禅ブームが起きたのです。これは、この時すでに、米欧では近代科学と理性の限界を超える智が求められ始めていたからです。

 しかし日本では、私が師野口晴哉に入門した1967年当時、高度経済成長の最中で、まだ、そのような時代ではありませんでした。

 本書では、現代日本人の身心、また社会に起こっている問題の奥には「近代科学と理性の限界」があることを、一部、二部を通じて述べてきました。その限界を超えるために必要な、思想としての「禅」(これが「後科学の禅」の意)を説いたのが鈴木大拙氏です。

 野口整体が生まれたのは、日本の近代化(西洋の近代科学文明を取り入れること)を通じてのことですが、鈴木大拙氏が世界に伝えた禅も、近代化を経て再編された新しい仏教でした。第三章では、その気運となった日本仏教の近代化について述べていきます。

 明治新政府神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、神仏分離令を発布しました。これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動(「仏を廃し釈尊の教えを毀す」暴動)が起きたのですが、それは江戸時代からの、民衆の仏教者に対する反感からでした。こうしてこの時代、仏教は衰退の危機に見舞われたのです。

 このような状況を打開するため、日本仏教界の先進的な人々は、新しい仏教の構築を模索し始め、江戸時代の旧弊(第三章二 2②で詳述)を脱し、仏教が近代的に生まれ変わる必要があることを痛感するようになりました。

 大拙氏の禅師であった釈宗演師はその急先鋒であり、1893年アメリカのシカゴで開かれた史上初の万国宗教会議で、日本仏教界代表として演説をすることになりました(貞太郎(後の大拙氏)が師の演説の英訳を引き受けた)。

 当時、世界で最も近代化が進んだシカゴでは、科学技術の進歩による貨幣経済ダーウィンの進化論によって、キリスト教は衰退の危機にありました。

 こうした社会背景の下、アメリカのキリスト教界は、キリスト教威信回復のための、絶好の機会として「万国宗教会議」の開催を推進したのです。

 宗演師は、この会議を「仏教東漸(とうぜん)」の機会と捉え、伝統仏教から脱却した近代社会に合致する、新しい普遍宗教としての仏教の可能性を提示することを試みました。

 こうして、東洋・日本の仏教が西洋に伝わることになりましたが、この仏教の近代化への試みが、後に大拙氏が、世界へ向けて「ZEN」を発信する契機となったのです。この「世界の大拙」が生まれる機縁を生じさせた時代と、その生みの親・釈宗演師の軌跡を辿り、近代以後に必要な宗教性とは何かについて考えます。

 野口整体の思想基盤には禅があり、野口整体を体得する道筋としては勿論のこと、野口整体に携わるには、禅を理解することが求められます。このため第三部には、論理を超えた深い内容が含まれていますが、本書(『野口整体と科学 活元運動』Ⅰ・Ⅱ)の内容を理解するための締め括りとして、時をかけて精読して頂きたいと思います。

オイゲン・ヘリゲル(1884~1955年)

ドイツの哲学者。ハイデルベルク生まれ。1924(大正13)年5月、東北帝国大学哲学講師として来日し、仙台に居住する(1929年(昭和4年)8月まで)。

1926(昭和元)年春から妻と共に、東北帝国大学弓術部師範であった弓聖・阿波研造(1880~1939年)に弟子入りをし、弓道修行に打ち込む。帰国する頃には、師より免許皆伝・五段の免状を受けるまでに至る。

鈴木大拙(1870~1966年)

仏教哲学者。本名は貞太郎。石川県金沢市生まれ。東京帝国大学哲学科選科に学び、鎌倉円覚寺臨済宗)の今北洪川、釈宗演に師事。1897年アメリカに渡り「大乗起信論」の英訳、「大乗仏教概論」の英文出版を行う。1909年帰国後、学習院教授を経て大谷大学教授となり、英文の仏教研究雑誌「イースタン・ブッディスト」を創刊。戦後は米欧の大学で講義を行い、仏教や禅思想を広く世界に紹介した。

1949年文化勲章受章。1966年95歳で死去。著作に『禅と日本文化』(岩波書店)など多数。

釈宗演(1860~1919)

臨済宗の僧。若狭国高浜(現福井県大飯郡高浜町)生まれ。今北洪川の法を継ぐ。慶応義塾に学び、セイロン(スリランカ)に留学。のち円覚寺派建長寺派の管長を兼務。明治26年シカゴでの万国宗教会議に出席し、初めて米欧に禅を紹介した。その後も鈴木大拙と共に世界に禅を喧伝した。夏目漱石徳富蘇峰らが参禅し、大正期に禅ブームを巻き起こした。臨済宗大学(現・花園大学)学長。