野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部第一章 一2 神秘へと至る途を求めていたヘリゲル

 英語で密教のことをEsoteric Buddism(秘教的な仏教)と言いますが、これは仏と人間が一体となることを目指す仏教、という意味です。そういう意味では、密教だけでなく禅もEsoteric Buddismと言うことができるのです。

 実はキリスト教にもEsoteric(エソテリック・神秘主義的な)なキリスト教(神との合一を目指す)というのがあって、ヘリゲルが研究したマイスター・エックハルトもエソテリックなキリスト教を実践した一人です。しかし西洋では、近代以前まで異端とされてきました。

 しかし、ヘリゲルの学生時代頃から第二次世界大戦までというのは、エソテリックなキリスト教に対する関心が非常に強まった時代でもあったのです。

 ちなみにアメリカやヨーロッパでは、今かつてないほどキリスト教を信じていない人の割合が増えているそうですが、これは近代に入ってからずっと続いている傾向です。

 それでは今回の内容に入ります。

2 神秘へと至る途を求めていたヘリゲル

 ヘリゲルは、ハイデルベルク(スイスと接するドイツ最南西部バーデン=ヴュルテンベルク州北西部の都市)大学で当初は神学部に属し、中世のドイツ神秘主義のマイスター・エックハルト(1260年頃生 ドイツ)(註)を研究していました。

エックハルトの思想は次のようなものです。

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」

 このような汎神論的(万物に神が宿っている、またその全体性が神であるとし、神と世界が本質的に同一であるとする)思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなりました。

(註)神秘主義 宗教や哲学において絶対者(神・最高実在・宇宙の根本原理など)を自らのうちで直接体験し、自己との合一を求める立場。エックハルトは、人間は我性から徹底的に脱却し、極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら、創造の以前より存在する魂の火花が働き、 魂の根底に神の子の誕生が起こる(神の子として転生する)とし、「神との合一」を、そして神性の無を説いた。

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば、教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまうからである。

 しかし、彼はこのキリスト教神秘主義に傾倒しながらも、これを完全に理解するには自身に何かが欠けており、それは、どうしても現れて来そうになく、その解決の道を見出し得なかったのです。「神との合一」という、その肝心の部分を実感できず、限界を感じて哲学に転じたのでした。

 彼はその当時のことを、次のように述べています(『新訳 弓と禅』弓と禅 Ⅱ.弓道を学び始めた経緯)。

神秘主義研究から禅への関心

 私は学生時代からすでに、不思議な衝動に駆られて、神秘主義を熱心に研究していた。そのような関心がほとんどない時代の風潮にもかかわらずに。

 しかし、いろいろ努力を尽くしても、私は神秘主義の文献を外から取り組むよりほかなく、神秘主義の原現象と呼ばれていることの周りを回っているだけであることを意識し、あたかも秘密を包んでいる周りの高い壁を越えて入ることができないということを、次第に悟るようになった。

 神秘主義についての膨大な文献においてすら、私が追及しているものを見出せず、次第に失望して、落胆して、真に離脱した者のみが、「離脱」ということが何を意味するかを理解できるのであり、自己自身から完全に解かれて、無になって抜け出た者のみが、「神以上の神」と一つになる準備ができるようになれるのだろうという洞察に達したのであった。

 それゆえ、私は、自らが経験すること、苦しみを味わい尽くすこと〔修行〕以外には、神秘主義に至る途はないこと、この前提が欠けている場合には、神秘主義についてのあらゆる言明は、単なる言葉のあげつらいにすぎないということを悟ったのである。

 しかし、人はいかにして神秘主義者になれるのか。どうしたら単にそう思うだけでなく、離脱という状態に実際になれるのだろうか。偉大な達人〔マイスター〕たちと何世紀も隔たって離れてしまった者にとっても、全く違った諸関係の下で育ってきた現代人にとっても、神秘主義へ至る途がなお存在するのであろうか。

神秘主義的な経験は、人間がどんなに思い願っても、こちらへもたらされえないということではないのか。いかにして、それに手掛かりをつけようか。私は自らが閉ざされた戸の前に立っていることに気づいたが、繰り返し戸を揺さぶることをやめることもできなかった。しかし憧れは残っていた。うんざりしてはいたが、この憧れに対する強い思いはあったのである。

 当時、私講師(教授を目指す研究者。国からではなく、学生から聴講料を貰って講義を行うドイツの大学独特の制度)であったヘリゲルは、日本人留学生の家庭教師をしたり面倒を見たりしていましたが、1921年ハイデルベルク大学に留学した大峡秀英― 鎌倉円覚寺に参禅し、釈宗演の弟子・釈宗括より居士の印可を得ていた ―により、禅仏教の存在を初めて知ることになりました。

「神秘」に至る最後の門の前に立ちながら、その門を開くべき鍵を持っていないと感じていたヘリゲルは、日本ではまさに自己からの離脱を眼目とする修行法の伝統が、現代まで受け継がれていることに驚き、「禅の国」日本に対する憧れを抱いたのです。

 そんな中、東北帝国大学哲学講師の話があり、ヘリゲルは生きた仏教 ―「沈思の実践」と神秘説 ― に触れることを願い、日本からの招聘を喜んで受け入れたのでした。

「神との合一」に至る道は西洋では見出せないと、強く感じていたヘリゲルは、日本への訪問という機会を得、東北の地・仙台にたどり着いたのです。