野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 二 日本の禅文化「道」の特質 1

二 日本の禅文化「道」の特質

 今回から二に入ります。ヘリゲルの本はヨーロッパの読者を対象としているので、日本における術(道)とは何を目的としているかという哲学的テーマから始まります。

 それにしても、当時のヨーロッパ人がこのように理解していたということに改めて驚かされます。ヘリゲルの師、阿波研造は精神性をことに重んじた人ではあったようですが、むしろ日本人はここまで明確に目的を理解していない人も多かったでしょう。それでは内容に入ります。

1 道とは、自分自身を相手にして内的に…

 ヘリゲルは日本の「道」を、次のように表しています(『新訳 弓と禅』「弓と禅」Ⅰ.はじめに)。

弓道とは何か

…日本人は弓道の「道」を、主として肉体的な練習によって多少なりとも習得できるスポーツ的な能力ではなく、その根源を精神的な修錬に求め、その目標は精神的に射中(あ)てることにあると理解している。それゆえ、射手は根本では自己自身を狙い、そして自己自身に射中てることをおそらく達成するのである。

…伝承されていた弓の技術は、武器としての役割を果たさなくなって以来、楽しい趣味になったというのではない。弓道の「大いなる教え(大射道教のこと(註))」は、もっと別のことを語っている。

 それによれば、弓道は相変わらず生死を懸ける重要事であるが、それは射手の自己自身との対決であるという意味であり、対決のその意味は、退化した代償なのではなく、外へと向けられた全ての対決―たとえば生きた敵との対決―を担っている根底なのである。射手の自己自身とのこの対決において、弓道の隠された本質が初めて示されるのである。

…その時、最も偉大にして究極のものが姿を現わす。術は術なきものとなり、射ることは射ないことになり、弓と矢なくして射ることになり、師匠は再び弟子となり、達人は初心者になり、終わりは始まりになり、始まりは完成になるからである。

 極東〔日本〕の人にとって、このような不思議な定式は、透徹したものであり、よく知られているものである。これに対して、我々ヨーロッパ人にとっては、疑いようもなく全くの謎である。それゆえに、さらに一歩進めるよりほかはないであろう。

(註)大射道教

 1920年のある夜更け、阿波研造師は月光が照らす的前に独り立った。肉体も滅びよと射続けた果てに、自己が粉みじんに爆発する感覚に襲われる。弦音高く放たれた矢は、幾千里のかなたに走ったかと思われた。弓によって宇宙と自己が合一する神秘体験を経て、1923年、阿波師は禅に根幹をおく弓道の新団体「大射道教」を旗揚げする。

「弓を引いている瞬間の我は、宇宙と一体をなすべきものであること、…一射絶命の境地に到達しなければならないこと、射がすなわち禅的生活である」と、阿波師は説いた。

 禅と深く関係している日本的な弓術を、禅の予備門として始めることを考えたヘリゲルは、「永年小銃と拳銃の射撃を稽古したことが弓術の稽古にも役立つだろう」と思ったのですが、彼は「その予想がまったく誤りだったことは後になって分かった。」、そして「私たちが最初の時間に学ぶべきことは、無術の術に到る道は容易ではないということであった。」と、振り返っています(『日本の弓術』二)。

 ヘリゲルは、「弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に深いのである。あるいは、日本の弓術の先生方の間でよく通じる言葉を用いて言うならば、弓を射る時には「不動の中心」となることに一切が懸かっている。(『日本の弓術』一)」と述べ、次のように続けています。

 日本のあらゆる術(道)は、その内面的形式から言えば一本の共通な根元たる仏教に溯らなければならないということは、われわれヨーロッパ人にとっても、すでに久しい以前からなんの秘密でもなくなっている。これが弓術(道)についても言いうることは、墨絵、茶の湯、歌舞伎、生け花、剣術その他もろもろの術(道)と同様である。

…ここで言う仏教とは、その文献が一見わけなく手に入るところから、実を言えばヨーロッパ人だけが知っている、あるいは知っていると思い込んでいる、かの思弁的な仏教(ヨーロッパの仏教学研究で理解された仏教)ではなくて日本で「禅」と呼ばれている思弁的でない仏教である。

 これは何をおいてもまず思弁を志すものではなく、実践、したがって沈思の実践を志すものであり、それゆえに、思想的に詳述されたそれに関する知識にはあまり価値を与えず、その中で行われる生活に挫かれない力を得させようとするものである。

…弓術(道)の基をなしている精神的修練は、これを正しく解するならば、神秘的修練であり、したがって弓術(道)は、弓と矢をもって外的に何事かを行おうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。

 それゆえ、弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託(他の物事を借りること)に過ぎない。目的に至る道であって、目的そのものではない。この道の通じるべき目的そのものは、簡単に言ってしまえば神秘的合一(ウーニオミスチカ)、神性との一致、仏陀の発現である。