①内臓に注目する西洋医学・体壁に注目する東洋医学
解剖学者・三木成夫(1925年生)は、人間の体を内蔵系と体壁系(体癖ではない)の二つに分けました。これは古代ギリシアのアリストテレス以来の大別のしかたでもあり、これをまとめると次のようになります。
内臓系
「栄養―生殖(吸収・循環・排泄)」を司る器官(内臓・血管など)、いわゆる「はらわた」。植物性器官とも呼ばれる。
1、栄養物を取り入れる消化―呼吸系(吸収系)
2、これを全身に配る血液―脈管系(循環系)
3、産物を外に出す泌尿―生殖系(排出系)
体壁系
身体の「感覚―運動」を司る器官(神経系・筋肉系・外皮系など)体表(体の壁)の部分。内臓系を包むいわゆる「五体(頭と四肢)」で、動物性器官とも呼ばれる。
1、体外の刺激に応ずる感覚系(受容系)
2、刺激を導く神経系(伝達系)
3、最後にこれをあらわす運動系
動物は栄養―生殖のいとなみが感覚―運動機関によってなされる。
三木成夫の生命観・身体観は野口整体の身体観との共通点があり、その中心は要求(栄養―生殖・個体保存と種族保存)が運動の原点にあるという点です。
野口晴哉先生は、整体の目標として「運動系の正常な運動を保つ」ことを挙げています。内臓系の変動も運動系の変動にまず現れ、一体のものなのです。
野口先生は運動系にこそ人間らしさ、人間の特質が表れており、運動系の方面から観るのが本当ではないかと考えました。この運動系の正常な運動を妨げるものとして潜在意識、要求に直結している気のはたらき、そして無意識の偏り運動習性などさまざまな分野がひらかれていったのです。体癖研究はその一環です。
そして、金井先生が、整体の観察を一般にわかりやすく説明するために用いた「からだことば」は、体壁系が表現する感情を意味しているわけです。
内臓系と体壁系の分化は、細胞が細胞膜と中心核に分かれているように原初的段階で既にみられ、感覚器官が未分化な原始的生物の段階になるとよりはっきりしてきます(ホヤやナマコの例)。
湯浅康雄氏は三木成夫の観方を踏まえ、「生命の体制は、内臓系と体壁系の分化から始まると言ってもいい」と述べています。
このような見方からは、西洋医学は内臓中心医学、東洋医学は「体壁中心医学」と対比してみることができるのです。
生命にとっての運動系の意味を考える上でも、三木成夫の解剖学は興味深いものです。
(参考 『気とは何か』湯浅康雄、『ヒトのからだ』三木成夫)
「身体性」は体表・体壁にある
私が行ってきた野口整体の「個人指導」とは、専ら、身体の「体壁(たいへき)系(註)」に表現されている情動を捉えた上での、身体(無意識)および意識との対話と言うことができます。これは、新しい体表医学と言うべきものです。
東洋の医学観は、内臓中心の西洋医学に対して、体壁を中心に発達してきたのです。それは、生きたままの人間を観察し、研究してきたからです(西洋医学の基盤にある死体解剖学は、二分法「生きていることと、体を切り離す」に拠っている)。
植物系は、身体の内部に蔵されるので「内臓系」と呼ばれています。一方、動物系は身体の壁からできているので「体壁系(脳を中枢とする神経系、筋肉系、外皮系など)」と呼ばれます。
動物は植物と違い、動きまわって食べ物を確保する必要から体壁系が発達したのです。
西洋医学が機械論的に発達したのは、近代初頭、西欧で盛んに行われた死体解剖に拠るものです。このため、西洋医学は内臓中心医学となりました。
一方東洋医学は体表医学と呼ばれ、体壁系を観る(註)もので、これは「生きたものを生きたまま研究する」という態度なのです。この態度が、機械論的な西洋医学を基とする近代的身体観と東洋的身体観を分けているのです。
解剖学(機械論)的身体観では、内臓が中心になりますが、内臓は、異常が無ければ自覚出来ないもので、自覚出来ない時が正常です。異常感と病因を探るための、(西洋医学は)内臓中心医学ということで、ここにも、正常と異常という二分法が反映しています。
体壁系は「身体感覚」によって把握されます。身体感覚によって身体全体を把持(=自己把持)できることが、「身体性」による能力を発揮できるというものです。こういう意味において、表面である皮膚を大事にするのです。そして「身体性」を高めることが、日本の「腰・肚」文化の基盤にあったのです。
壁系の運動特性が、「個人によって異なる」という面から発展させたのが師野口晴哉の運動系の研究、つまり体癖論。