野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第五章 野口整体と心身医学の共通点一9

現代人の心の問題を考えた深層心理学者は東洋の瞑想法の意義を捉えた

 湯浅氏は『気・修行・身体』(第一章 東洋的身心論と現代 7)で、心身相関的見方を開拓した西洋の深層心理学者や精神医学者の中で、東洋の宗教的修行法(身体技法としての瞑想法)に関心を持った人として、ユングやフロムなどの名を挙げています。

 ユング道教密教・禅・ヨーガなどを広く研究し、フロム(1900年 ドイツ生)は特に禅に関心を持ち、禅と精神分析の関係について研究しました。

 また、ユングの師であったブロイアーに師事したボス(精神科医 1903年生 スイス)は、禅やヨーガの瞑想が西洋の心理療法にとって重要な意義を持つと考えました。

 彼らは深層心理学の立場から、瞑想法を、意識の表面にはたらいている抑制力を弱め(明るい意識を弱め)、意識下(無意識)に隠れているエネルギーを活発にする訓練として理解し、来談者と療法家双方にとって重要な意義を持つと考えた(捉えた)のです。

(身心の一元性に基づく東洋では、宗教的問題・心と、医学的問題・体は常に一つのものとして捉えられてきた)

 このように西洋では、東洋の身体行(瞑想法)には、心の問題に対する高い治癒効果があることが、日本よりも早く医学的に理解されるようになっていったのです。

 

 古来より瞑想は、無意識におけるコンプレックスを解消し、心の癖を変えていくことを目的とするものでした。東洋の修行法は「身体の訓練を通じて心を訓練(情動をコントロール)する」もので、その心とは、とりわけ「感情」を意味しているのです。

 最近多く見られる「うつ」症状は、現代的な頭の働きが要因になっています。それは「理性」が良くないものとして切り離した「感情」によるエネルギーが、「自我」を支配している状態なのです(これがコンプレックス)。現代人に発達した理性は「良い・悪い」に分けるはたらきでもあり、勢い自身の感情を抑圧することになります。

 この「感情の問題」こそが、神経症抑うつ症などの「精神疾患(精神科で扱う)」だけでなく、「心身症」と呼ばれる「身体疾患(心療内科で扱う)」が急増している原因なのです。

私の経験での「神経症抑うつ症」と「心身症」の相違は、次のように述べることができます。

 神経症的な傾向として、些細な事が頭を離れず、一度落ち込むと、くよくよと悩み続けてしまう神経質な面があります。また、自身の心の変化に非常に敏感で、精神面の症状を強く感情的に訴える事が多く、苦悩や喜怒哀楽の情動(とくに怒や哀)を積極的に言葉で表現する事が多いのです。

 抑うつ症の人は、生活や仕事において「嫌だと感じていること(ストレス)」が、ある程度自覚的なのです。

 しかし心身症の人は、そう感じていることが内攻しており(潜在意識と現在意識の分離)、身体症状ばかりが訴えの中心で、その根底にある心理的なもの(陰性感情)が容易には観えてこないということが特徴です。

 人は、主に人間関係によって、絶えず喜怒哀楽の感情が発生するものですが、内向した不快情動が積み重なると、自分自身(心と体)を内攻する(内部を冒す)ことになるのです。

 心身症の人は、神経症の人より職業面などの社会的な適応が良い場合が多く、自分の内的な感情面には鈍感だったり無関心だったりする事があります。

 共に「感情を切り離す」という現代的傾向が背景にありますが、個人的な問題点として、社会生活を営むまでの「感情の発達」に障害があったと、観ることができます。

 それは、「外的な環境・活動」への適応能力はある程度高いのですが、「内的な感情・葛藤」に対する適応能力は低いのです(現代では、会社などの職場における不満や人間関係による葛藤の問題も大きい)。

 近・現代では、科学的社会(外界)に適応するための理性的能力(自我意識)の発達と心身のコントロール(感情と行動の抑制)のみが考えられ、自身の内面的な情動や無意識(身体)の世界に対する適応という、心身のコントロールの必要をまったく無視してきました(=「内界への適応」を無視することでの外界への過剰適応の問題)。

 ここに現代病として、心身症「うつ」が流行してきた原因があり、内なる世界に適応するための、瞑想的な教育(修養・養生)の必要性があります。

 西洋のフロイトに始まる深層心理学や心身医学は、東洋宗教修行における瞑想の心理学的効用を理論づけました。東洋の伝統的文化遺産が現代人の心の問題に対して重要な意義をもっていることを明らかにしたのです。

(補)成育過程で経験するストレス状態の問題

 さまざまな理由と背景により、成育過程で強い精神外傷などによるストレス状態を繰り返し経験すると、その年齢時点で発達の停滞が起こります。

 たとえば自分の要求を感じ、訴え、充たす…ということが生活の中心である3~4才ぐらいの時までにそのような生活があったとすると、要求というものそのものが分からなくなる、自分から分離してしまうということが起きます。要求があっても訴えること、充たすための行動を起こすことができなくなる場合もあります。

 それが非常に強ければその時点で発達が止まる、病気になるなどの障害が表面化し、明瞭に出てくるのですが、そこまでのレベルではない場合は、その時点で止まったままの心が内在化し、内面的には辛い思いをしながらも、知的側面など、他の部分は年齢相応の発達へと向かっていきます。

 全体から分離して、発達を止めたままの子どもの心は、感受性の歪みとなってかくれた影響力をおよぼし、自己中心的で、不満が強く衝動的な側面として、抑圧されるようになります。要求も感情も当時のままで、しかも一時的にしか充たされることがありません。

 こうして、社会的に適応していこうとする意識がつくり出す虚像的な自分が出来上がったり、分離した心が感じる感情と意識と葛藤したりするようになるのです。

 それは、意識化され、自分自身の全体性の中に組み込まれ、発達の道を歩み始めるまで、それが続きます。たとえば子どもの時、いつも不安が強かった人は、大人になった現在の生活で不安を感じることがあると、それを過敏に感じ、体の深部に影響が及びます。

 ノーマルであれば運動系(体癖系)の範囲の変動で治まることが、心臓など内臓系の変動にもつながる場合があるのです。これは、免疫系その他全体的なストレス耐性が弱くなっているということです。

 年齢的にもっと後の場合もありますが、ストレス状態と精神外傷は、その時期に応じた「成長を止めた心」「時間の止まった心」をつくり出します。

 個人指導の観察では、脊椎や腸骨の歪み・傾きや委縮などから、そうした潜在意識の状態を観察しています。子ども時代までさかのぼる遠い過去ではなく、ごく最近の情動的ショックやストレス状態によっても「時間が止まった」ような状態になります。

 そうした状態を脱することで、自身の感受性の歪みに気づき、全体性を取り戻していくようにするのです。