野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第六章 生き方を啓く整体指導― 感情の発達と人間的成長三2

身体性の宗教・禅と精神性の医学・心身医学との出会い

  池見氏は、ヨーロッパで禅を広めている弟子丸泰仙老師(註)を、フランスに訪ねた時のことを次のように述べています(『セルフ・コントロールと禅』より要約)。

 氏は、1979年9月、イスラエルで開かれた第五回国際心身医学会に会長として出席した後、10月初めにスペインのコルドバで開かれる国際シンポジウム「サイエンスと意識」(フランス国営放送主催)の講演のため、スペインに向かう途中、かねてより文通によって交流のあった弟子丸老師を、パリの仏国禅寺に訪ねる機会を得ました。

 その際、パリの禅の実情を体験することを勧められ、9月21日、早朝(午前7~9時)の坐禅会に参加することになりました。

 

 パリの裏町にある仏国禅寺では、墨染の衣をまとった百人近い青い目の男女が端然と坐禅をしており、池見氏はこの中に交り、生まれて初めて正式の坐禅をすることになりました。

 二時間の坐禅の後、玄米粥を啜る一同の表情について、「誰もが、清々しい明るさを漂わせ、爽やかな朝の行事に満足し切っている」と、パリの人々の禅に取り組む様子を伝えています。

 弟子丸師の二つの口宣(くせん)(註)の一つ「ノーマル・ブレイン・コンディション(脳の正常状態に戻れ)」に対し、池見氏は「「真に宗教的なるもの」は、人間としての自己の本来の姿に立ち返ることを目指すもの、と述べ「脳の働きの正常化を促す坐禅を行ずることによって、心身ともに健やかで、独自の個性と可能性に裏打ちされた本当の自己を生きることができる…。」と続けています。

(註)口宣 坐禅をさせたまま、するどく与える教示。

 口宣の他の一つは「ノー・ベネフィット(無所得・無功徳―坐禅中はなにも求めるな、の意)」で、この心は活元運動を行う際にも大切なもの。

(註)弟子丸泰仙(1914年~1982年)

 日本曹洞宗の僧侶。沢木興道の下で出家。1967年フランスに渡り、69年ヨーロッパ禅協会を設立。ヨーロッパに禅ブームを起こし、パリの仏国禅寺をはじめ各地に禅道場をひらいた。ヨーロッパ開教総監。

 沢木興道門下の弟子丸師の兄弟子・村上光照師によると、弟子丸師が渡欧した際、旅費を工面したのが、師野口晴哉の弟子・阿倍氏であった、という。

 そして、弟子丸師はヨーロッパ中に25万人の弟子を作った(『仏教のコスモロジーを探して―深くて新しい仏教のいま』(サンガジャパン 2014年)より)。

(補足)無目的で行う活元運動

 体を整えることで心の力を啓く整体指導―禅文化としての野口整体Ⅰ 6 の補足を修正し、もういちど載せておきます。(近藤)

「無所得(何かを得ようとしない)・無所悟(悟りを得ようとしない)」という、無目的で行う坐禅には、DMN(デフォルトモードネットワーク。脳が何もしていない安静状態にある時の機能)という神経活動を調和させるはたらきがあると言われます。

 野口先生は活元運動について次のように述べています(『月刊全生』)。

活元運動は目的があってやると純粋でなくなるのです。天心でやるのです。体中の力を抜いてポカーンとすることにそのコツがあるのです。目的を持ってやると、頭に血が集まるせいか首の運動が多くなるのです。

首の運動が多くなると吐き気やめまいが起こってくる。だから吐き気やめまいを起こす人は、天心に目的なく行なうということから離れて、(病気を治そうという)目的のためにやろうと努めすぎている人です。

   金井先生は同教材の中で、「無心とは脱力することであり、頭が抜けて脱力すると、自ずと背骨は本来の真直ぐな姿になる」、そして「大人が常に無心を保つというのは難しくとも、無心になる時間を持つことで、止まなかった雑念想念がリセットされると生命の力が復活する、それが個人指導であり、整うということ」と言っています(要約)。

 そして「師野口晴哉は、このことを「無心となって整う」と言われた」と付記しています。

  私は、身心ともに整った時の、過去が過去として流れ、新しい自分に切り替わって、新しい何かが始まろうとしている気が充ちた状態、それが無心・天心というものなのだと思います。