野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第六章 生き方を啓く整体指導― 感情の発達と人間的成長三3

 先日、曹洞禅の僧侶の方のブログで、永平寺での生活について書いた記事を拝見しました。

 やっぱり、これはかなりだな…という感はありますが、出家者に課される型、厳しい規律とは違っても、きちんと坐って、食べることに集注する躾というのは、昔は一般的にありました。

 食べるときだけではなく、何かの作業をする時はそれ一心に集注するということです。私も子どものころ、祖父にテレビを横目で見ながら洗濯物をたたんでいたら、「半身でやるな」と注意されました。

 半身というのは、半分テレビ、半分洗濯物に心が割れているということで、ものごとには「一心」に取り組まなければならない、ということです。祖父は大工の棟梁でしたが、昔は職人世界にも禅的な心が生きていて、事故防止、技能の向上など、実生活にも役立つ「生きるための教養」となっていたのだと思います。それでは今回の内容に入ります。 

 「整体を保つ」という生活をすることは坐禅の真只中に生きること 

そして池見氏は「弟子丸師との出会い」を次のように述べています。 

オカルト的瞑想とのちがい

…正しい坐禅ができるためには、調眠(睡眠を整える)、調食(食事を整える)など、日常生活そのものが整ってこなければならない。また、正しい坐禅による脳の働きの正常化は、自ら日常生活の自己調整を促すことになる。このようにして、坐禅が、正常な脳の働きを中心にした日常生活へと、進展することが、望ましいわけである。それは「生活しながら坐禅(念仏)する」という段階から、「坐禅(念仏)の真只中で生活する」段階へと進むことを意味している。

…現代においては、心の健康を促すべき「宗教」の中に、ともすると、カリスマ的で軽薄な精神主義に浮き上ろうとする傾向がみられ、体の健康を促すべき「医学」の中に、人間性を切り捨て、動物的な、さらには、機械化された低次元の肉体の研究へと片寄る傾向がみとめられる。私は弟子丸老師にお目にかかることによって、身体を忘れた「宗教」のカリスマ化を正そうとしておられる老師の努力と、精神を忘れた「医学」の機械化を正そうとしている私どもの努力との出会いに、深い共感と感銘を覚えた。

 このような次第で、禅と心身医学の接点について老師といたく共鳴するところがあり、この共著を出版しようというところにまで、一気に話が進展した次第である。

 池見氏は仏国禅寺を訪れた翌日、参禅会のメンバーで女流精神分析家のジョーゼ夫人の車に同乗し、ロアール河畔にある禅城の開所式に参列しました。その車中の会話で、仏国禅寺のメンバーには精神分析家が何人もおり、坐禅を続けることによって自身の深層心理への気づきが深まり、来談者のより深い深層心理の分析に大いに役立っていると聞かされ、精神分析に対する思いを新たにした、と述べています。

 弟子丸師は「非思量」という身体意識について、次のように述べています(『セルフコントロールと禅』1‐5 坐禅時の意識の問題―調心)。 

ヨーロッパの一心理学者の非思量観

私がパリに来てから十余年間、私の弟子として、ずっと坐禅を続けているフランスの聡明な心理学者(ユングの元弟子)ジャニン・モノ夫人は『禅と心理学』という論文の中に「非思量意識」について、次のようなことを書いている。彼女が非思量についてどのように理解しているかは、私にとっても興味ある問題である。

「私たちが坐禅している時には、私たちの大脳は、もっとも自然な状態に帰っているように思われる。坐禅の姿勢に集中していると、身体の緊張のため、私たちの心は考えたり考えなかったりしているが、大脳はもっともリラックスな(くつろいだ安らかな)状態にあるような気分がする。それはもちろん夢見心地でも陶酔状態でもなく、弟子丸先生がよくいわれる『非思量』の意識であろう。

 そこで私は、坐禅時の非思量意識には『永遠の今』(永遠につながる今)があるといいたい。つまり、それは坐禅を通しての今・ここの『身体意識』といってもよいだろう。

  曹洞禅で表わされる非思量とは、野口整体では無心、さらに天心の境地と言ってよいと思います。