野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体 Ⅰ 活元運動 はじめに

 今回から「はじめに」に入ります。長かった上巻を紹介した後なので、何だかすごく新鮮な感じがします。私も初心に戻って読んでいこうと思います。少し長いですが、一気に紹介します。

はじめに

一般社団法人 野口整体 気・自然健康保持会

代表理事 金井 蒼天

 野口整体創始者野口晴哉は、「健康の原点」を次のように説きました(『月刊全生』増刊号 1989年)。

晴風

 健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。

 どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。

 楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべきである。

 右(上)のように「いのちで感ず」ることができるよう、「体を調え、心を静め」ることが、「整体」の道です。

 このように、野口整体でいう「整体」になる、というあり方は、坐禅の基本「調身・調息・調心」という、自らの「身と心」に向き合う態度が肝要です。

 整体を保ち、身心に具わる「要求」を活かして生きることによって「全生(生命を全うする)」できる、と師は教えました。

 科学的社会の価値観に適応し、理性的にのみ対処する(頭で捉える)生き方ではなく(=利害得失や毀誉褒貶のみに重きを置かず)、要求を活かして生きることは、「感性」を拠り所として生活すること、と言うことができます。

 ここで言う感性は、先ずは身体感覚が敏感になることから発達します。「動く禅」と呼ばれる活元運動による身心の鍛錬は、これを磨くものです。野口整体は「科学の知」に対する「禅の智」というもので、「悟り」を目指す禅とは、「自分の可能性を発掘する」ことです。

 そして、整体指導法の目的は「感受性を高度ならしむる」ことにあり、整体を保ち(高度な感受性を以って)生活することが、「全生の道」です。

 師野口晴哉は、全生の道を次のように表しています(『月刊全生』増刊号)。

晴風

生くるものはいつかは死ぬ也。それ故生きている也。されどいつか死ぬに非ずして刻々死している也。笑っていても泣いていても、死につつある也。その死につつあるを生きていると申している也。

十日生きたる人は十日死んだる也。刻々に生きている人あり、死んでいる人あり。利害得失に追い廻され汲々としている如きは、生きているのは利害得失にして、人は刻々死んでいる也。知識に追われ、毀誉褒貶の為、他人の顔色に使われている如きも又同じ也。この刻々に死につつある人世に生くること、全生の道也。

溌剌と生きた者にのみ深い眠りがある。

生ききつた者にだけ、安らかな死がある。

「科学を相対化する」こと、「東洋宗教(伝統)文化を再考する」ことを通じて、「禅文化としての野口整体」を思想的に理解する、これが、本書の目的です。

 2008年4月より、井深大・湯浅泰雄・石川光男・河合隼雄立川昭二氏ら五氏の思想に取り組むことになりました。後に、鈴木大拙・池見酉次郎氏らにも学ぶことになりましたが、これらは、「科学とは何か」について知るためであり、また東洋宗教の世界を論理的に、哲学的に把握するためだったのです。

 それは、師野口晴哉が興した「整体」の思想と行法について、その歴史的な意味や、現代における社会的立脚点について諦観するという、私の、無意的な欲求(歴史と世界の中で、自分が「何をしているのか」について知悉したい)によるものでした。

 こうして私は、「近代科学と東洋宗教」という主題を捉えることになりましたが、この両者の対比の中で、野口整体とは「禅文化」が近代化されたものであると、その思想を明確に捉えることができ(上巻Ⅰ・Ⅱで詳述)、これを伝えんと「禅文化としての野口整体」を著すことになりました。

 現代日本の多くの人々は、敗戦(1945年)後の科学至上主義教育により、無意識的に、科学絶対主義(科学的世界観が唯一)となっているのです(これは、意識が理性偏重となっていることを意味する)。

 こうした人々においては、敗戦以前の伝統文化を基盤として成立した野口整体(の「身体性」)を、真に理解することは容易ではありません。

 それは、敗戦以前の日本では、東洋宗教文化が結晶した「道」というものが、日本人の共通感覚となっていたのであり、現代では、この共通感覚を失っているからです。

 そこで、理性に偏って意識が発達した現代の人々が、野口整体を身に付けて行く上では、先ず、科学を相対化し(これについては上巻Ⅰ・Ⅱで詳述)、野口整体の東洋宗教(とくに禅)文化性を、思想的に理解することが肝要なのです。