野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 序章 二2

井深 大から始まった「近代科学」についての学び

 私は団塊の世代(1948年2月生)で、東京オリンピック(1964年10月10日開催)前後に高校生活を送りました。

 当時は、戦後の高度経済成長下に大学受験競争が激化し、それは、その後の時代にも続く受験戦争の幕開けとも言えるものでした。受験勉強は、その後の競争社会への適応度を測るものなのでしょう(受験勉強は、競争をすることであって学問をすることではない)。

 良い大学の後には、良い会社や、役人という出世コースが約束されているという、戦後の「金銭至上」という風が強く吹いていたのです。

 敗戦後の高度経済成長によって、硬貨の表が「科学至上」ならば、裏が「金銭至上」という時代がもたらされていました(このような時代に高校生活を送った私は、競争を煽る学校の体制に強く反発を感じていた。中巻『野口整体ユング心理学 心療整体』巻頭で詳述)。

 私の身の周りでは、学校の先生もその他の大人も「良い成績を取って良い大学に行けばいい」ということしか言わず、将来の方向を相談できるような、「感性」に対する理解を示す人は皆無でした(高校時、私は「どのような方向に進んだら良いのだろう」と悩んでいた)。

 そして、私のこのような思春期の体験が「近代科学」につながっていることを教えてくれたのが井深大(1908~1997年)氏でした。

「知育・徳育・体育」という言葉がありますが、井深氏は『あと半分の教育』(ごま書房 1985年)の中で「徳育」についてとくに触れ、

「今ある教育学というものが、知的に理論的に物事を解釈することだけが目的や方法になってしまっていて、感性といったものを受け止める受け皿が全然ない状態にある」

と、戦後日本の教育についての問題点を指摘しています。

 井深氏は晩年の書で、「戦後民主主義」と呼ばれる教育がどのようなものであったかについて、次のように述べています(『胎児から』)。 

「胎児を考える」とは地球の将来を考えること

 思えば日本の教育は、明治以来、欧米に、追いつき追い越すことを最大の目標に掲げてきました。敗戦という大きな挫折の後もこうした目標に変わりはなく、むしろアメリカの合理主義的教育に範をとった戦後の教育改革が、それに拍車をかけたといえます。その結果、知識を詰め込む知育最優先という偏った教育体制ができあがってしまいました。

確かに戦後の荒廃から日本が立ち直るためには、知的人材の育成こそ急務だったというやむを得ない事情もありました。だがその反面、日本人としての「心を育てる」「人柄を築きあげる」という教育(これが東洋宗教文化「道」の教育)のいま一つの重要な部分が置き去りにされてしまったことも事実です。

…拝金主義に毒された社会のひずみから、情緒障害やいじめといった子供たちの心の荒廃にいたるまで、私たちは、今、知育に偏りすぎた戦後教育のツケを、さまざまなかたちで支払わされているのですから。

つまり私が突き当たった疑問は、戦後日本の教育が抱えてきた病根そのものであったわけです。そして私は、いわゆる秀才や英才を育てる以前に、戦後教育が見捨ててきた「心を育てる」教育こそが、いま最も必要とされていることではないかと考えるに到りました。

まずは人間としての「心」が先であって、知識を中心とした能力を養うことなど、その後でも十分間に合う。「心」が育まれてこそ知恵や知識がついてくるのであって、その逆ではない。そうした考え方に変わってきたのでした。

  敗戦後、科学技術を日本人の生活に活かすことに始まり、ソニーを世界的な企業に育てた井深大氏は、いち早く「科学文明」の問題点を感じ取った人でもあり、戦後日本の知育偏重教育の弊害による「心の問題」に早くから気づいておられました。

(井深氏は教育活動に熱心に取り組み、1969年、幼児開発協会を設立)