野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 序章 二1

二 井深 大に始まる五氏の思想との出会い

  今回から序章二に入ります。中村天風の思想については、このブログで以前紹介しましたが、序章二では、井深大の思想と活動について多く述べられています。

 井深大野口晴哉と交流があり、休みの日に開発途上のトランジスタラジオを持って遊びに行き、野口先生が即買いしたりしていたようです。古き良き時代ですね。

 でも、ある対談の中で、「自分が楽しく野口さんと話している間にも、悩みを抱えて(野口先生との)面会を待っている人がいるのを知って、遠慮するようになった」と言っていました。

 また、当時は井深氏も、エンジニアである自身が幼児教育に関わるとは思っておらず、野口先生ともそういう話をしたことはなかったそうですが、後に野口整体の潜在意識教育を知り、残念だったと述懐しています。

 この部分で接点を持つことができなかったお二人が、金井先生の中でつながった…、そんな気がします。それでは今回の内容に入ります。

本書の動機、科学と「身体性の喪失」― 五氏の思想を学び明確に捉えた科学の問題点

  私は、師野口晴哉亡き後、独りでこの道を歩むしかなかったのですが、後に関心を強く持った、私の野口整体(金井流)を確立する上での意義深い「思想と実践」として、中村天風師の「天風哲学・心身統一道」がありました。

 次には、井深大氏(ソニー創業者)の「思想と活動」でした。井深氏は、師野口晴哉とも親交があったことから、以前より私は氏に関心を持っていたのです。

 石川氏から科学について学ぶ以前より取り組んでいた湯浅泰雄氏の著作『気・修行・身体』を通じて、身体の訓練は心の訓練を意味するという「東洋宗教」の「修行」というものが、西洋では理解され難いこと、その背景には、心と体を分離するデカルト以来の「心身二元論(註)」があることを捉えていました。

  これは、科学的現代社会に育った日本の若い世代が、野口整体を学ぼうとする時、「身体行(=修行・修養・養生)」というものを理解できない背景として、西洋と共通していることなのです。

湯浅泰雄氏は、修行によって得られる「深い智」について、次のように述べています(『身体論』序説)。

3 修行の歴史と理論

 東洋思想の哲学的独自性はどこにあるのか。一つの重要な特質は、東洋の理論の哲学的基礎には〝修行〟の考え方がおかれているところにある。

簡単にいえば、真の哲学的知というものは、単なる理論的思考によって得られるものではなく、「体得(体験を通して知る)」あるいは「体認(体験的に会得する)」によってのみ、認識できるものであるというところにある。

 それは、自己の心身のすべてを用いてはじめて得られる知(身体智)である。それはいわば「身体で覚えこむ」ものであって、知性(頭脳知)によって知るわけではない。修行とは、心身のすべてを打ちこんではじめて真の知に到達するための実践なのである。(( )丸ゴシック体は筆者による解説) 

  師野口晴哉と同様、湯浅氏は、東洋思想の智の深さについてこのように述べています。この哲学的独自性は、敗戦後の「科学教」の時代を通じ、「修行」という東洋宗教的伝統を失ったことで、若い世代に理解されなくなっています。

「修行」が理解されないという点で、若い世代は西洋人と同じなのです。それは、現代の日本人は、科学の「心身二元論」の影響を大きく受けているからです。

 この「心身二元論」はどのように形成されたのか、その風土的・歴史的背景をより詳細に理解するため、「西洋と東洋の世界観」について石川光男氏に学ぶ必要がありました。

 一言にして言えば、石川光男氏からは「東西の世界観」の相違、湯浅泰雄氏からは「東西の心身観」の相違について学ぶことができました。

 続いて、河合隼雄氏(臨床心理学者)の著作を通じ「ユング心理学」に出会うことになり、「科学によって観えなくなるものとは何か(中巻『野口整体ユング心理学 心療整体』で詳述)」が理解できて行きました。そんな中、河合氏を通じて得た、私の大きな目覚めは、科学は身体性から離れるということです。

私が西洋医学の「科学的成り立ちを理解する」ことは、禅や老荘を思想基盤とする野口 整体の「社会的立処(たちど)(位置・立場)」を諦観する(本質をはっきりと見きわめる)ことになりました。

 そして、「身体性」から離れた(=感覚と感情を切り離した)「理性」という意識を発達させる近代科学には、自分のことを考える智はないということを、河合氏を通じて知ったのです。

 西洋文明は、古代ギリシア哲学以来の理性を至高とするもので、二元論が基にあるのです。

 近代科学の基盤である「心身二元論」と「機械論的生命観」が普く行き渡っている現代、これから紹介する五氏が取り組んで来られた近代科学の問題は、より深刻化し、心や生命に対する感性はますます失われてきています。

「科学の知・禅の智」シリーズは、科学的な知に対して、野口整体がどのような智であるかを、五氏の思想を通じて、考え著したものです。

 五氏は平均すると、私(1948年生)より、二十四歳年長の方々で、このような時代の諸氏だからこそ持ち得た思想であり、かつ、私が1967年からこの世界に身を置いたことで、五氏の思想を受け継ぎ活用することができるものと確信しています。

 師野口晴哉と確かにつながる世界観を持つ人々に出逢ったことに、私は今、大きな喜びを持つことができるのです。

(註)心身二元論 精神(霊魂)とは「理性」であり、人間の中心(心)

は「頭」にあるという思想(この場合の心は、理性のみを指し、「感覚や感情」は含まれていない)。「理性」を重視することで、人間を心と体に分けたのが心身二元論心身二元論では、心とは「理性」を指し、体は「物質」。