野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 三3 ヘリゲルの哲学的思索力により禅の精神が西洋に

3 ヘリゲルの哲学的思索力により禅の精神が西洋に

 第二の矢が第一の矢の筈を二つに割いた夜、小町谷氏は通訳に行かなかったのですが、後にその時のことを次のように述べています(『日本の弓術』)。

ヘリゲル君と弓

…彼の講演(原稿)を読んだ後に、この出来事について、ある日阿波先生にうかがったところ、先生は、「いやまったく不思議なことがあるものです。偶然にも、ああいうことが起こったのです」と言って笑って居られた。ヘリゲル君が日本にいる間、不思議なことがあったと、一度も話さなかった冷静な態度にも感心するが、先生が柴田君のこの翻訳が出るまで、一度もそのことを物語られなかった態度にも、ほんとうに敬服させられる。

 ヘリゲルは同著三で、禅僧の行「沈思の実践」は、弓術(道)が正しく行われるならば最後に到達すべき境地であると述べ、その境地「無」とは

「…自分を無意味な有と感じるのではないということである。真の沈思においては、単にあらゆる思考と意欲だけではなく感情も…すべて無くなってしまうからである。神秘的な生活、非有の中の有、…何物にもたとえることができない。それを自ら経験したことのない者には、言葉ではそれが言い換えられるだけで、とうてい言い表すことはできない…。

 経験があって初めて、無の概念があらゆる神秘説において決定的な役割を演じていること、…ということが、理解される。」そして、

「…無と有の間には、あるいは理解をいっそう容易にするため構わず言ってしまうならば、神性と現世の生活との間には、完全な忘我(無)と明瞭な自我意識(有)との間と同一の、断ちがたい関係がある。」と述べています。

そして、道と仏教(無心)について

「仏教は日本民族の文化と生活形態を広い範囲にわたって規定し、かつこれに特色を与えて来た。いわゆる悟りを開くのは、つねに比較的少数の人間に限られているので、仏教の作用はもちろん直接ではなく、いろいろの術を仲介とした(術を通して仏教の心を教えた)のである。

…これらの術を会得すれば、平然としていても心に隙(すき)がなく、無心に行動しても意志が最後まで持ち耐(こた)えられ、無私な態度の中にも自己が確実に保たれるようになる…。」

 と述べ、無心の効用を、論理化しました。

 阿波師は、ヘリゲルがその哲学的思索力によって弓道の精神をよく理解することに感心し、敬意を払うようになっていましたが、ヘリゲルもまた、阿波師を比類なき弓道師範であると真に思い、師事するようになっていました。

 免許皆伝・五段(妻は二段)となった(弓術の達人となる可能性を認められた)彼は、師から師弟の交わりを結んだ記念として愛用の弓を贈られ、さらに日本武士道の真の理解者であることを悦んだ師から、秘蔵の名刀を贈られ日本を離れたのでした。

 ヘリゲル夫妻の帰国前に、阿波研造師は次のように語りました(『新訳 弓と禅』Ⅸ.稽古の第四段階―弓道の奥義の示唆)。

 帰国を前に

「…ただ一つ、あなた方の心の準備として言っておかなければなりません。あなた方お二人は、この年月が経つ内に変わられてしまいました。これは、弓道が、すなわち射手の自己自身との究極の深さにまで達する対決が、もたらしたものです。

あなた方は今までそのことにほとんど注意されなかったでしょうが、あなた方が故国で友人・知己に再会されると、そのことに否応なく気づくでしょう。以前のようにはしっくりとは合わないのです。あなた方は多くのことを違った風に見、違った尺度で測っているのです。それは私にとっても、そのように起りました、この道の精神に触れた人には誰でも、このことが起るのです」