野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 三1 無心を妨げていたヘリゲルの近代的精神― 自我から無我への大きな峠①

三 弓道修行の実践

 今日から三に入ります。三の内容はヘリゲルが日本の弓道を学ぶ途上で経験した疑問や葛藤、そこから脱していく過程が主題となっています。このような心理は整体指導法(観察や操法など)を学ぶ際にも経験することで、私もヘリゲルの気持ちが分かるような気がしたものです。

 三は引用文と内容のまとめが多くなりますが、金井先生がこの内容を選んだ意味を考えながら、読み進めて頂ければと思います。

1 無心を妨げていたヘリゲルの近代的精神― 自我から無我への大きな峠

『新訳 弓と禅』を翻訳した魚住孝至氏の解説「Ⅰ.オイゲン・ヘリゲルの生涯」で、魚住氏は『日本の弓術』から引用し、「妻グスティとともに(ヘリゲルが)阿波に入門したのは、通訳を務めた小町谷操三の記憶の通り「大正15年〔1926年〕春」…であったと思われる」、そして「ヘリゲルは「ほとんど六年にわたる弓道の稽古」と書いているが、阿波についた稽古は実質四年数カ月だったようである。」と述べています。

 しかし、彼が入門した1926年春から仙台を離れる1929年8月までの間は、三年数カ月しかないのですが、魚住氏自身が「四年数カ月」と間違いをされています(本二冊を精査したところでは、ヘリゲルの弓道修行期間は「三年数か月」と言わざるを得ない)。

 また魚住氏は、同著「講演 武士道的な弓道」の訳注(9)で、「ヘリゲルは、…1929年7月まで東北帝国大学に在籍し、哲学・西洋古典語の授業を担当した。」と記されながら、「弓と禅」解説で「ヘリゲル夫妻は一九二九年五月に仙台を去って、ドイツに帰国…」と、年月の記述に曖昧さがあります。

 そこで、ここ三 1においては、『日本の弓術』に書かれているヘリゲルの修行経過の年数(また、その他の数字)を、そのままに使用することにします(この点について魚住氏は『弓と禅』の訳注(10)で「…ヘリゲルの入門からの年数の記載は、当時の日本の慣例にもよって、足掛け何年の記述のようである。」と記されているが、右傍線部の期間は足掛けでも四年数カ月とはならない)。

①ヘリゲルの近代的心身観

 通訳を務めた小町谷氏の当時の回想録「ヘリゲル君と弓」(『日本の弓術』)によると、「(師は稽古で)呼吸を整えることと、丹田に力を入れることを、やかましく言われた。しかしヘリゲル君には、丹田に力を入れるということが、はなはだ理解し難いことのようであった。呼吸は肺でするものではないか。その気を丹田に持って行けと言っても、それは生理的に不可能ではないか、とよく反問した。(金井・西洋の呼吸法は肺呼吸)」とあります。

 そして「先生は力射を戒(いまし)めた。弓を引くには全身の力を捨てよ、ただ精神力をもって引けと教えた。ヘリゲル君は、ここで大きな暗礁に乗り上げてしまった。彼は、弓は弾力を利用して矢を的に当てるものではないか。それには全身の力を用いなければならないはずだ。それなのに、全身の力を捨てたなら、骨なし(gelockerter Mensch)になってしまうではないか。そんなことは考えられないことだと言った。この疑問は随分長いこと続いた。」とあり、近代的心身観に基づき、理性で理解しようとする、西洋人である彼の苦闘が伺えます。