野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 二5 主客一体(主客未分)による「自己知」― 科学には自分のことを考える智はない

5 主客一体(主客未分)による「自己知」― 科学には自分のことを考える智はない

 近代科学は学習を重ねた上で、研究することによって行なわれます。理性(頭)で行なう近代科学(=研究)と、身体を開墾する東洋宗教(=修行)とは、「理性と身体性」という相違なのです。身体性は無意識のはたらきと関わっており、修行を通じて身体を開墾することは、無意識を啓くことです。

 近代科学によっては意識が発達し、東洋宗教によっては無意識が発達するという相違です。肉体や身体という表現をしますと、科学には肉体の「運動能力」はありますが、「身体性」というものはないのです(西洋のスポーツと、日本の道文化による伝統的身体技法(=型)という相違)。

 この「身体性」を向上させるのが、東洋宗教の「修行」というもので、そうしてもたらされる身体によって、実は、自分の意識がどう変容し、成長するかという問題なのです。

 大拙氏は、西洋的自然観から生じた「科学的客観」と東洋的自然観から生じた「禅的絶対主観」を対比させ、この両者が、ともに真の実在に向かう二つの道であることを説き、次のように続けています。

三 禅仏教における自己(セルフ)の概念

 禅における実在のつかみ方は前科学的であり、ときには反科学的でもあるというのは、つまり禅はその動き方がまったく科学が追求する方向とは逆であるということによる。この事実は必ずしも禅が科学とは相いれぬ立場にあるという意味ではない。禅を知るには我々は科学者が従来非科学的と称して見過ごしてきた立場に立つ必要があるという意味なのである。

 科学はどの分野も一様に外に向っており、いわば遠心的であるし、物を取り上げて研究する場合、その物に対して客観的にこれを観察せんとする。つまり科学の立場は自分自身から物を引き離していく立場であって、決して見るものと見られるものとが一体になるといった方向を取ろうと努めることはないのである。

 かりに、自分の内部を見つめるといったような場合にあっても、科学者の立場は必ず内部のものを注意深く外部に取り出して、内部のものはあたかも自分のものでなく、外部から自分と無関係に与えられたもののごとくこれを自己から疎外(嫌ってのけものにする)されたものとして扱うのである。

 科学者は主観的であるということを極度に恐れる。けれども、我々が外部に立つ限り我々は終始局外者たることをまぬがれないことを銘記する必要がある。従って外部に立つということのために、我々は物そのものをじかに見ることは決して出来ない。

 科学的な現代の教育によって、その思考法が(ある分野の能力が一定)身に付くと、右傍線部にあるような態度を無意識に取ってしまうものです。それは、主観と切り離された客観だけが機能し、自分の中にある感情を直截(ちょくせつ)に感じることができない、また自分の感情を受け止める主体がないことです。科学は、主観の未発達と主体性の欠如をもたらすのです。

 科学の時代だからこそ現代に多い「うつ」とは、「理性」を主とする自我が、本人の感情(理性によって不都合なものと認識された)と対立している状態なのです。

 そして大拙氏は、科学にはない「私」を知る智=自己知について、次のように続けています。

三 禅仏教における自己(セルフ)の概念

科学者は科学者として、自己とは何かということについては思う存分意見を述べ得ることは疑いもないが、ただしそれだけのことである。もし我々が衷心(ちゅうしん)(心の底・まごころ)から、なんとかして真の自己を把握したいと念願するのならば、この科学が追求する方向をいっぺんヒックリ返さなければならぬ。すると初めて自己が内面から把握される。決して外面からではない。

これはつまり、自己は自己の内側からのみ自己自身を知るように出来ている、ということである。こう言うと、では、どうしてそんなことが可能であるのか、知識とは、必ず二つに分れて知るものと知られるものとがなければ成り立たぬものではないか、と言いたい人もいるだろう。これに対して私のいわくは〝自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ〟ということである。

 大拙氏は「自分自身から物を引き離していく」科学の立場と、「見るものと見られるものとが一体になる」禅の立場について右のように説いています。そして主観と客観の分離による科学と、主観・客観を分離しない禅の観方がある、というわけです。

 とくに自分を知る「自己知」について、主客の一体性を強調し、科学の「見るものと見られるもの(知るものと知られるもの)」という主客分離に対し、禅の「主客一体(主客未分)」を説いたのです。

 禅的な「見るものと見られるものとが一体になる」には、主体的自己把持(=身体を内側から主体的に捉える)感覚が発達することによって可能となるのです(これには立腰に依る瞑想が必須)。自分の内部を捉えるはたらき(主体的自己把持する感覚)によって、外部のものを捉えるのです(これが「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」に表わされている「自他一如」の感覚)。

「自己知」とは、科学の、いわゆる客観的な見方によって捉え得るものではないのです(科学的認識の世界には「自分」は入っていない)。