野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

自己知と「肚」―後科学の禅・野口整体 7

自己知とは

 これまで述べてきたように、鈴木大拙はこの『禅と精神分析』の中で、自己(セルフ)、無意識について語っています。

 自己知=自分を知る知というと、自分の性質にある意識できない問題や、潜在感情(コンプレックス)を知ることだと思う人も多いかと思います。

 そういうことも自己知の一部と言えますが、それが自分のすべてではありません。心の源泉である無意識が意識にはたらきかけること(心の自然治癒力)で、気づきが起こり、自分の全体像が理解できるのです(整体指導の場合は、愉気を通して指導者の無意識がはたらきかける)。無意識とは生命であり、裡の自然というものなのです。

 大拙氏は頭と「肚」を対比して「肚」は自然に最も近く「我々が来たりそこへ我々が帰るところの場」と言い、次のように述べています(『禅と精神分析』)。

・・・肚の部分とは一番自然と近密な関係にあり、自然を感じ、自然と共に語り、自然をよく調べることが出来る。調べるというが、これは知的な働きではない。私に言わせれば、知的というよりは情的である。ただし感情という言葉をその最も根本的な意味に使うとして、これは感情という語が一番適切と思う。 

 金井先生とこの箇所を読んだ時、先生は「今、感情というと負の面を捉える傾向が強いが、大拙が言う感情は「正」の部分だ」と言いました。そして、整体操法では「頭の緊張をお腹で調節する(お腹が整うと頭がきちんとはたらく)」と整体とのつながりを説いてくださいました。

 最後に、大拙氏が「私」を知る智=自己知について述べている所と金井先生の文章を続けて引用し、終わりとします(改行を増やしました)。

三 禅仏教における自己(セルフ)の概念

・・・もし我々が衷心(ちゅうしん)(心の底・まごころ)から、なんとかして真の自己を把握したいと念願するのならば、この科学が追求する方向をいっぺんヒックリ返さなければならぬ。すると初めて自己が内面から把握される。決して外面からではない。これはつまり、自己は自己の内側からのみ自己自身を知るように出来ている、ということである。

こう言うと、では、どうしてそんなことが可能であるのか、知識とは、必ず二つに分れて知るものと知られるものとがなければ成り立たぬものではないか、と言いたい人もいるだろう。これに対して私のいわくは〝自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ〟ということである。

・・・主観的とか客観的とかそんなことは実はどうでもよいのだ。我々がいのちがけで取り組むのは〝この生命とはどこにあるのか〟〝その生命の姿はどんなものか〟ということを自分自身で身をもって発見すること以外にはない。

(金井・これが「整体」に生きる態度)

  (金井)

大拙氏は「自分自身から物を引き離していく」科学の立場と、「見るものと見られるものとが一体になる」禅の立場について右のように説いています。そして主観と客観の分離による科学と、主観・客観を分離しない禅の観方がある、というわけです。

とくに自分を知る「自己知」について、主客の一体性を強調し、科学の「見るものと見られるもの(知るものと知られるもの)」という主客分離に対し、禅の「主客一体(主客未分)」を説いたのです。

 禅的な「見るものと見られるものとが一体になる」には、主体的自己把持(=身体を内側から主体的に捉える)感覚が発達することによって可能となるのです(これには立腰に依る瞑想が必須)。

 自分の内部を捉えるはたらき(主体的自己把持する感覚)によって、外部のものを捉えるのです(これが「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」に表わされている「自他一如」の感覚)。

「自己知」とは、科学の、いわゆる客観的な見方によって捉え得るものではないのです(科学的認識の世界には「自分」は入っていない)。