野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 二2 禅的な観方と感性の世界― 考える西洋、感じる東洋

2 禅的な観方と感性の世界― 考える西洋、感じる東洋

 東洋における宗教の目的は、人と自然が一体となることでした(ことに日本人にとっての宗教は、安心立命(心の安らぎと内なる神との一体化)が目的)。

 しかし、キリスト教の信仰行為とは、神の被造物であるこの世(外界の自然)という書物を読み解くことでした。この、西欧人の理性によって「神を知る」という知的欲求が、近代以後「科学的行為」へとシフトしたのです。

 さらに、大拙氏は次のように続けています。

一 東と西

…2 さて、次にテニスンは何をしたか。彼は引き抜いた花を見つめる。その花はおそらく凋(しぼ)み始めていたに違いないが……、そして自分自身に疑問を提起する。〝私はお前がわかるだろうか?〟と。芭蕉ならばこんな詮索はせぬ。芭蕉はいかにもしおらしい齊(なずな)一ぱいにあふれている全神秘を――全存在の根底に通貫する神秘を――身をもって感得する。この感銘の深みにわれを忘れて、思わず芭蕉は深い詠歎の声を発する。だがこの叫びは声にも出ず、また耳をもって聞くこともできぬ叫びである。

 テニスンはまったく逆だ。彼は自己の知性に訴えて行く。つまり〝もし(とくにこの仮定に注意)私がお前を知り得たならば、私は神と人間のなんたるかを知るに違いない〟と。この〝知る〟ということに強く訴えて行くところがとくに西洋的な特色を帯びている。芭蕉は〝受け取って行く〟が、テニスンは“対立”して行く。テニスンは自分の〝我〟というものを花からへだてられたところに置いている。

 従って神からも、人間からもへだたっている。彼には、自己と神、自己と自然を打って一丸となす、といったところはない。彼はつねに自然から、神から離れて立っている(非連続的自然観)。彼の〝知る〟ということは、今日の人々のいわゆる〝科学的客観〟の立場である。

 ところが芭蕉は、徹頭徹尾〝主観的〟といってよい。(この主観的と言うのは実は余り良くない言葉で、ふつうは主観と言えば必ず客観に対立することになっている。だが私の言う “主観 ”はそうした相対を超えた絶対的主観の意と思ってもらいたい。)芭蕉はこの絶対主観に足を踏まえて立つ。

芭蕉は〝よく見れば〟と言う。この〝よく〟という一語において芭蕉はもはや外から花を見ている芭蕉でなくなってしまっているのだ。それはどうかというと、花が花としての自分をみずから意識するのだ。そしてこの花自身が黙って、しかも雄弁に自分を物語っているのだ。

 この花自身の側に生じた沈黙の雄弁、雄弁の沈黙がそのまま人間にひびいてくる。このひびきが芭蕉の十七文字の一句となって生まれるのである。ところが、いかに深々たる感得、神秘な言葉、絶対主観の哲学といったものがあっても、こういうところを実地に体得した人でなければ、それがじかにひびいて来ないのである。

(金井 禅の哲学的知とは、体得(十分会得すること)、体認(体験してしっかり会得すること)によってのみ認識できる)

 テニスンには、私の見るところでは、第一この感得の深さがない。彼はどこまでも知的なのだ。これが西洋の心理を代表している。彼はこの点、西洋理性主義の代弁者といってもよい。彼は黙ってはおれず、何か言わなくてはおれないのだ。

 自己の具体的な経験を抽象(事物のある側面を抽(ぬ)き離して把握すること)し、概念化せねばおかぬ。彼は感じという領域から出て来て、知性の世界に帰らねばならぬ。そして生命、感情というものをして一連の分析のもとに屈せしめねばおかぬ。こうすることによって、西洋人の何か知りたくてならぬという詮索好きの心理を満足さすことになる。

 私は芭蕉テニスンの二人の詩人を取り上げたが、この両者によって私は真の実在に向って進む二つの道の根本的な性格を示したいと考える。つまり、東洋的な方向を芭蕉とすれば、西洋的なあり方はテニスンである。

 この両者を比較してみると、そのいずれもが、それぞれの文化の伝統的な背景を物語っているのに気がつく。つまり西洋の心理とは、分析的、分別的、差別的、帰納的(註)、個人的、知性的、客観的、科学的、概括的、概念的、体系的、非人間的、合法的、組織的、権力的、自我中心的、自分の意志を他へ押し付け的なものと見る。

 これに反し、東洋の心理として、総合的、当体(事物そのもの)的、合一的、未分化的、演繹的(註)、非体系的、独断的、直観的(知的というよりもむしろ情意的に)、言(こと)あげせず、主観的、精神的には個人主義的であっても、社会的には集団心理的な点(原註)などをその特徴とみてよかろうと思う。

(註)帰納法

 類似の事例をもとにして、一般的法則や原理を導き出す推論法のこと。←→ 演繹法 前提となる事柄をもとに、そこから確実に言える結論を導き出す推論法のこと。

(原註)キリスト者は教会を救済の仲介と考える。それは救い主キリストをシンボライズ(象徴)するのが教会だからである。キリスト教では人間は個人的に神と結びつくのでなく、教会を通じて結びつく。そしてキリストは教会であり、教会とは相集まって神を礼拝する場所であり、キリストを通じて神の救いを祈る。この点キリスト教の人々は集団心理的であるが、一方社会的にはかえって個人主義の色彩が強い(日本人は社会的には集団主義的であり、しかし、禅は最も徹底した「個人主義」という特徴がある)。

 先の引用文にある「真の実在に向って進む二つの道」という言葉が、私において「科学の知・禅の智」となりました。

 大拙氏が説く「深々たる感得、…絶対主観」という観方(自他一如による)が、野口整体の観方です。

 また「この〝知る〟ということに強く訴えて行くところがとくに西洋的な特色を帯びている。芭蕉は〝受け取って行く〟が、テニスンは“対立”して行く。自分の〝我〟というものを花からへだてられたところに置いている。

…自己の具体的な経験を抽象し、概念化せねばおかぬ。彼は感じという領域から出てきて、知性の世界に帰らねばならぬ。そして生命、感情というものをして一連の分析のもとに屈せしめねばおかぬ。…」というあり方は、野口整体の世界観(および身体に対する取り組み方)の対極に位置するものです。