野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 二6 科学は主客分離による対象化の知 禅は主客未分の一体化の智

6 科学は主客分離による対象化の知 禅は主客未分の一体化の智

 大拙氏は、禅の観方が、科学的、また西洋的な見方と「どのような相違があるのか」、とくに「生命」を捉える禅の智について、次のように述べています。

三 禅仏教における自己(セルフ)の概念

…科学者というものは、神学者、哲学者とても同じだが、何事も、ものごとを客観的に見たがる。そして主観的になることを嫌う。── この主観的ということの意味の詮索はまた別の話として ──。その理由はこうだ。科学者は一つの固定した考えにどこまでも拘泥しているからである。

 その考え方とは、つまり何事を述べる場合でもそれが客観的に評価され確認されない限り真実であり得ない。単に主観的とか、個人的に経験されただけでは真実ではない、という考えである。

 がしかし、ここに一つ彼らの見落としている点がありはせぬか。人格というものは必ず一個の人間の生活の中に如実に生きているものであって、決して概念的に、科学的に定義せられたものの中にあることはできない。

 定義というものがいかに精確に、客観的にまたは哲学的に定められたといったところで、人格が住んでいるのはそんな定義の中でなくて、生きた生命の中に棲んでいるのである。この生命が人間の研究の主題なのだ。主観的とか客観的とかそんなことは実はどうでもよいのだ。

 我々がいのちがけで取り組むのは〝この生命とはどこにあるのか〟〝その生命の姿はどんなものか〟ということを自分自身で身をもって発見すること以外にはない。(金井・これが「整体」に生きる態度)

 了々(物事がはっきりわかるさま)として自知する人格というものは、決して理屈をつけることにうき身をやつし(身がやせ細るほど熱中)たりはせぬ。…この了々自知の人格には独自の生き方があり、自由の創造的生命に生きているものである。

(六〇頁)

…禅は科学とは違うと言っても、いかなる科学的な実在への方向に対しても、別にこれに反対をするわけではない。ただ禅の側から科学者に言いたいことがある。それは科学的な行き方も結構だが、実在への道は単に科学的なものばかりではない。まだほかに一つの行き方がある。

 禅からすれば、これのほうがずっと直接で、内面的で、もっと現実的でしかも人間的だと言いたい。科学から見ればこの行き方は主観的というけれども、これは科学が定義し解釈しているような主観ではない。

…科学とか論理というものは客観的であって、中心からだんだん遠ざかって行く遠心的な行き方であるのに反し、禅は主観的であって、いつも中心に向かって進む求心的方向だというのである。

 大拙氏は、これを、客観に対立する主観ではなく、相対を超えた絶対的な主観という意で、「絶対主観」と表現しています。

 これは、科学の客観に対して、禅の主観ということであり、修行を通じて主観を磨くことで行われる東洋宗教を、第一部で取り上げた、石川光男氏は「主観主義的経験科学」、湯浅泰雄氏は「主体的経験科学」と表現しています。同じく第一部で紹介した天風哲学は、中村天風師の体験に基づく絶対主観に拠るものです。